は敦燻地区まで及んでおり(敦煙画により),さらに十世紀後半には浙江まで伝播し(清涼寺の釈迦如来像の胎内納入品により),十一世紀後半には福建まで広まってきた(『別尊雑記」により)と推測できる。残念ながら,現段階では水月観音図(像)が北へ進展したことを跡づける手がかりは,なお見出すことができない。このような水月観音図(像)の発展の進路は,中国における補陀落山信仰の展開と密接なつながりがあると言える。また,五代・宋時代以来,山水画の発達が水月観音図の発展を一層促したと考えられる。即ち,五代・宋時代の水月観音図における補陀落山を象徴した山などの情景は,人間世界に見られる自然景物のような水辺の様子が,山水画の技法を生かして描き出されたのである。よって,絵画史において周B方の水月観音図が出現した意義,後世に与えた深い影響は,ただ一つの新しい仏画の画題が生み出されたというだけではなく,画家(画エ)が経典に説かれた内容と自分の創作意識を合わせて制作する先導の道を開いたということにおいて,きわめて重要な意味を持っていると言える。それに,現存する水月観音図の構図を検討して纏めたところによると,従来の真正面で結践珈坐するなど仏画の特質を持つ,正面性が強い伝統的な観音像と比べると,水月観音のポーズは,かなり柔らかく,自由自在の造形で人間味が強いと言える。このような造形こそ,信仰対象と信仰者の間の隔たりを縮めることができる。このことによって水月観音像は,元時代以降もずっと発展し続けてきたのである。白衣観音に関しては,観音が白衣を着ているという伝承が古くから存在し,それが求那践陀羅(394■468)の夢に化身して出現したということである。また,経典の中にもこのことが早くから記述されており,即ち隋の開皇十七年(597)以前に編纂されたと認められる『陀羅尼雑集』を出典として見出すことができるのである。このような観音が白衣を着ているという長い認識の背景は,後に白衣観音信仰の成立以後,白衣観音が人々に受け入れられやすくて,まもなく大きく広がっていった原因の一つと考えられるが,この時点において白衣観音像がすでに成立されていたとは言い得ないのである。漢訳経典を基礎的な資料として考察した結果,密教系統の白衣観音像は髪冠から白い吊を被っているのがそのポイントの一つであることが明らかである。このような造形の観音像が白衣を着用するパターンを加えて形成された図像は,今日よく見られる白衣観音像の原型であろうと考えられる。密教系統の白衣観音像の成立の歩みは,むしろ漢訳経典の訳出とともに動き始めたのであり,その時期は善無畏の『大毘慮遮那成佛神髪加持経』(724■25年)が訳出された以降と考えられる。このような-43 -
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