考え方において,初期の白衣観音像の表出は単独の尊像としてではなくて,曼荼羅のように他の密教尊像と一緒に表現されたと思われる。現段階で直接の手がかりとなるような記録を見出すことができないが,資料の検証によって,中国でも日本のように密教の修法としての白衣観音法が咸通六年(865)の頃,或いはこの時期よりやや早い頃から存在したのではないかと考えられる。もしこのような修法があれば,この修法が行われるため,白衣観音が単独の尊像,或いは本尊としての檸像を成立させたきっかけになったのではないかと推測できる。この時期は,中国絵画史上に見られる白衣観音像の出現の記載と,時間的に大きな隔たりはなかったのである。それに文献からみると,十世紀半ば頃,北方の遼朝においては白衣観音信仰がすでに成立していた。ほぼ同じ時期には南方の呉越国にも,白衣観音に関係する物語が生み出されたのである。残念ながら,この両地に出現された白衣観音の造形の相違は,現段階では指摘できないが,白衣観音の図様について言えば,現存する十三世紀以前に造られた白衣観音に関する非密教系統の作品は,その制作地が宋の勢力範囲の及んだ地域内であり,一方,密教系統と認められる作品の制作地は,他民族の支配した地域であると大きく分けることができる。この非密教系の作品とは,その背景に水辺の自然景物が表出されたものであり,これは即ち,敦燈文書P.三九二七啓請白衣観自在文に述べられている白衣観音が居住する補陀落山の情景が表現されたのである。要するに白衣観音は,密教経典に記されている内容からの影響を受けて,頭か宝冠から吊を被り,白衣を着ているという造形がその特徴の一つであると考えられる。このような造形の白衣観音とその所在世界のありさまが描出された図様は,禅宗の勃興とともに禅林画家の好みに合致して,多く描かれる画題の一つとなったのである。白衣観音と送子観音の信仰に関しては,地域別の差は存在しないと思われる。換言すれば,このような信仰は,中国の各地へ広がって浸透していたと言える。この現象が生まれた基盤は,血脈を子々孫々に伝えるという中国の伝統的な思想に観音信仰が密着していたからであると理解することができよう。そして,楊柳観音については,様々な角度から考察して手に楊柳を持物として持っている形象の観音は,楊柳観音と称呼すべきであると考えられる。漢訳経典を検証したところ,経典には直接にこの楊柳観音の図像を説く内容は述べられていないが,楊柳というものが観音に関して修法をする際,欠くことができないものの一つとされることは,隋時代から続いていたことが明らかである。そして,楊柳は仏教においては-44-
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