5年(1930)に演劇論「COMCEDIADELL'ARTEの史的考察」を発表し,16世紀の『道ンの会」という会合をいく度ももって,非常に密に交流していたことである。この会を中心とした情報交換の中から,道化のキャラクターヘの関心も育っていったものと思われる(注6)。4 演劇,オペラ,レビューなどこの文学者と画家の交流の輪の中には,演劇関係者も混じっていた。脚本・演出・評論などに多彩な才能を示した小山内蕉もその一人である。海外の演劇を熱心に研究した彼は,横浜の主に外国人を対象とした西洋劇場・ゲーテ座にも通っており,そこで道化役を見ていたかもしれない(明治42年に同劇場で「ピエロの悪だくみ」上演の記録がある)(注7)。西欧近代戯曲の本格的移植をもくろんだ彼は,大正3年(1914)にベルリンで観た道化パントマイム劇「ピエレットの面紗」の脚本の翻訳を発表し,大正13年(1924)には築地小劇場を仲間と共に設立して,その活動を主導した(注8)。同劇場では大正14,15年(1925,26),科学者の職を捨てて道化師になった男の悲劇を扱った「なぐられるあいつ(横っ面をはられる彼)」(アンドレーエフ作)が演じられた。また,千田是也がアルルカンに扮した「陽気な死」(エウレイノフ作)が大正15年(1926)に上演されている。小山内がイタリアの即興喜劇コメディア・デラルテを熱心に研究していたこともまた,知られている(注9)。コメディア・デラルテについては,他に長谷川牧夫が昭和化集』版本からの挿画も紹介している(注10)。他方,明治末期に帝劇に招かれたローシー指導の下にオペラやオペレッタが導入され,その中でも道化役やそれに類するものとパントマイムなどが伝えられた。これにならって和製のオペラ作品も現われたが,とりわけ大正期に隆盛を誇った浅草オペラはオペラを短縮・アレンジし,多様な演芸を取り混ぜた独特のスタイルで上演して,大衆の支持を得た。その演目の中にも「ラ・カーニバル」,「ピエロの饗宴」,「コロンビナ」,「パリアッチ」といった道化に関わるものが含まれている。昭和初期にはレビューも登場して,エノケン(榎本健一)がスピーディーなコミックで人気を博した。ここにもサーカスを主題とした出し物が見出される(注11)。5 人形劇西欧の人形劇は元来,道化と深く関わっており,パンチとジュディ,ギニョール,ペトルーシカなど,庶民を代表した道化的役回りが主役として発展していた。海外の-539-
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