雑誌に掲載された(注15)。くアル・レカン〉等の図版を含む画集も昭和初期に出ている。ルオーについては,美術雑誌で大正15年(1926)に里見勝蔵による紹介があり,昭和3年(1928)にはルオーの小特集が組まれ,<道化役〉<俄師〉の図版が雑誌や美術年鑑に掲載されている。ルオーの画集も昭和5年,昭和7年(1930,32)に出版され,道化を主題とした作品図版それぞれ3点,7点を含んでいる(注16)。グリスの道化を描いた作品図版も,昭和5年(1930)に紹介されている(注17)。こうして明治以来,様々な分野で道化の多様な側面が紹介されてきたが,日本人一般的な理解としては,道化・ピエロといえば可哀想な笑い物というマイナスイメージが定着したきらいがある。北原白秋や生田春月らの詩の道化は,哀愁に満ちている。それは,田之倉稔氏が推測するように,「ドロップアウトの意識」があった日本の詩人がその意味において自己を道化に託したせいかもしれない。また日本のサーカス団にあっては,道化は曲芸に無能な者の役回りとされていたといわれるが,これも大きく影響しているかもしれない。この点,西欧の本来の道化とは別の意味合いを帯びてくる(注18)。日本の画家たちはどのように道化を表現してきたであろうか。表現方法の特色等により,1明治期,2明治末〜大正期,3大正末〜昭和戦前期の3つの時期に分けて考ふそのあとで特に三岸好太郎の道化像について考察したい。道化の伝わり方に応じて,その姿が絵画の中に登場してくる。まず来日したサーカス団の様子を描いた錦絵のうちのいくつかに,道化が描き込まれた。星形や水玉模様の旅手な衣装の姿である〔図1〕。また五姓田義松は早くも明治16年(1883),洋行の折に人形芝居の野外舞台セットを油彩画に描き,その装飾であるピエロとアルルカンの人形も写している〔図2,3〕。野長瀬晩花の日本画では,子供たちの傍らに道化人形が見える〔図4〕。しかしそれらの表現を見るかぎり,道化は脇役として単に記録される程度に留まっており,西欧で見られるような道化のキャラクターヘの興味は現れていない。8 日本人にとっての道化のイメージIII 日本の画家たちによる道化の表現1 明治期-541-
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