26〕や中村岳陵が描いている。古賀春江の水彩画の中にも,ピエロのような形象が見4 三岸好太郎の道化像いた〔図25〕。それから油彩ではないが,演劇やレビューに現れた道化を須山計ー〔図られるものがある。川西英は,主に木版画にサーカスを繰り返し表し,華やかな色彩による祝祭的な雰囲気の中に道化を登場させた。これらの作品は,中には哀感を表すものもあるが,それだけでは到底くくりきれない,多様性を示している。今後さらに個々に調査・検討を加えていきたい。・道化像の誕生ここで,渡欧の経験もないままに20数点もの油彩による道化像を残した三岸好太郎の場合について考察したい。三岸は中学卒業と同時に故郷・札幌から上京し,独学で絵画を学び,春陽会で認められるようになる。道化を主題とした制作は昭和3年(1928)から始まり(注22),昭和7年まで集中的に続けられる。彼はどのようにして道化に関する情報を得ていたのだろうか。三岸は大正15年(1926),中国を訪れ,上海でサーカスを見ている。彼が上海の見聞を綴った詩には「イサコ・サーカス」の名が見られるが(注23),これはイサコという人物を団長とするフランス風のサーカス団で,ロシアや東アジアで興行していたことが今回の調査でわかった(注24)。上海では,ちょうど三岸が訪れていた10月末から11月に興行しており,新聞広告によるとフランスの道化が出演している(注25)。三岸の道化が,当時の日本のサーカス団の道化とは服装や演技の方法の点で異なること,大正末期から昭和初期は昭和8年(1933)のハーゲンベック・サーカスの来日まで海外サーカス団の来日が乏しかったこと(注26)などを考えると,三岸の制作の一番の源泉はこの上海で見たイサコ・サーカスと考えられる。しかし,大正15年の旅行から,昭和3年の道化の作品制作開始までには,2年ほどの間がある。その間におそらく,彼は文学,演劇,映画,人形劇,図案,招来絵画や図版など,日本に伝わり,また表現された様々な道化に関する情報に触れ,イメージを発酵させていたのであろう。ここで少し,当時の彼の身辺に目を向けてみよう。中国旅行に同行した友人の画家・岡田七蔵は谷崎潤一郎の小説『鮫人』(大正15年)の挿画を描いており,そこには道化が登場している。岡田の親戚で三岸たちの中国旅行の出資者でもある笹沼源之助は,谷崎のパトロン的存在であった。笹沼は日本橋に偕楽園という中国料理店を経営しており,そこは小山内薫をはじめ多くの芸術家が訪れる場所であった。また,三岸は人-544-
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