鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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形劇団プーク(あるいはその前身)のメンバーと交流していたし,大阪で人形劇の活動をした浅野孟府にアトリエを設計してもらったりしている。このように三岸の交友関係を追ってみると,道化の紹介者である様々な人々に結び付く。さらに三岸は,詩に興味を持ち,詩作さえするほどであったから,翻訳詩などを読んで自ら道化にふれていたことは,十分に想像されるし,加えて彼は外国映画や浅草のレビューを愛し,また道化人形やマスクを愛蔵しており,関心の方向からしても道化と出会いやすい位置にいたのである。三岸の特に後期(昭和6,7年)の道化はルオー風といわれるが,ルオーが本格的に紹介されたのもちょうどこの頃であった。また昭和5年(1930)に帰国し,同年創立された独立美術協会に三岸と同じく創立会員として参加した林重義,伊藤廉の作品にも刺激を受けたかもしれない。・表現の特徴三岸の表現の特徴は,特定のモデルの影を消していることであろう。マスクをかぶせたり,表情を判然としない描き方で表わしたりするのはそのためである。これにより画面の現実味は薄れ,代わって限定されない普遍的な道化のイメージと,空想的な詩情が浮び上がる。彼の道化が時代や国の限定から逃れており,また感覚的に洗練されて感じられるのはそのためである。さらに,これら表情を特定しない,またモデル不在と見られる多数の道化を描き続けたことは,それらが彼の想念の中から生れた分身,つまり自画像であることを暗示する。三岸の道化像は哀愁や苦悩は含みつつも,決してそれだけではなく,多くは沈思の姿勢をとって知性を示し〔図20,22〕,時にはグロテスクでふてぶてしい人形の姿で人々を挑発し〔図21〕,また演技においても馬上や綱の上の,観客より一段と高く脚光を浴びる位置にいる〔図23〕。その頃の三岸は,画家としての生活の上で大きな転機を迎えていた。すなわち道化のテーマは,彼が春陽会からより先鋭的な新団体・独立美術協会へと所属を移した前後の時期に見られるのであるが,それは,自分より実績がありしかもほとんどが洋行帰りという新しい画家仲間たちに混じって活躍しようと,緊張感が著しく高まっていた時だったのである。道化を主題とすることを契機に,新しい画風にかけて決意と意気込みを見せた三岸は,道化により多くの意味を見出し,それを自己と同一化することによって,激しい孤独感や焦燥や不安感と,またそれを裏返したような自信に満ち,毅然とした,時には(鑑賞者も含め)周囲を見下すような態度を合せ持ったような道-545-

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