鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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病気を癒す効用を持つと信じられており,このことは中国の伝統的な信仰に合致したので,観音像に関する作品に楊柳という図様が表出されたのは,中国の人々に受け入れられやすかったからと理解できる。また,隋の灌頂が智額の説を録して著わした『請観音経疏』に,「楊枝彿動。以表慧。浮水澄淳以表定。楊枝又二義。一彿除。即封上消義。二彿打。即封上伏義。オ弗除酎消滅之消。ニオ弗打即封消除。」と述べた訳解は,手に楊柳という持物を持つ観音像の成立におそらく大きな役割を果たしたであろうと言える。即ち,これは観音が一手に楊柳を持ち,一手に浄水を容れる宝瓶を持つという図様の形成との関係が深いと考えられる。これが観音の持物に,楊柳と宝瓶とがペアとしてよく現わされている根拠なのであろう。このような構成は,宝瓶に容れられた浄水を楊柳でi麗いで,人々の様々な苦難を除去することを象徴し,観音の諸難救済の意味あいが上手に表現されていると言える。しかも,この楊柳の図柄は上述したように,後に成立した水月観音図や白衣観音図の中にもよく現わされており,その根深い影響を窺うことができる。ところで作例から言えば,楊柳を持物とする観音は,隋時代に制作されたと認められるもの,例えば敦煙莫高窟第二七六号窟の南壁に描かれた尊像などが例として取り上げられる。このような図様の中国における発展は,それ以降もずっと続いてきており,楊柳というものは,化仏や蓮華と同じように観音像の標識の一つであると受けとめられるようになったのである。このような長い歳月の進展に基づき,宋時代における観音の名称が,主に観音の持物を以て名付けられたということか考えられるにも関わらず,楊柳を持物とする観音像は,一般的な場合には,わざわざこれを楊柳観音と呼ぶのではなくて,単に普通の観音像として扱われていたのではないかと思量できる。その形象については,手に楊柳を持物とするのはその特徴であるが,ほかのところには伝統的な観音の造形を継承し,基本的に大きな変化はあまりなかったと考えられる。このような楊柳観音像が中国で広がり展開したことは,インドで生まれた観音像が中国化した結果の一つであり,このことの意義は,きわめて奥深いものであると言える。上述した三つの観音像の中国での展開の順序については,まず登場するのは楊柳観音であり,次が水月観音であり,最後は白衣観音であると考えられる。この三者の観音像の具象化,言い換えれば作品化がどの漢訳経典を根拠としたか,その出典を確言することは難しいが,かといって経典と全く関係がないと言い切ることもできないということを,あらためて認識しなおした。このような経典に述べられている図像との-45 -

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