鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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⑬ 郷土出身の画家,山内多門の歩み研究者:都城市立美術館主査(学芸員)冨迫美幸くはじめに〉山内多門は忘れられた画家である。郷里の都城では,ある程度の年配なら知っている人もいるのだが。多門の顕彰は,都城文化協会が,昭和49年から毎年行っている多門祭と,都城市立美術館が多門祭に協賛して開く多門展とでなされている。文化協会は,昭和43年に藤井文雄が創立したが,藤井は,多門の姉ナヲ(多門上京の際,母を多門から引き取った)の孫にあたることから,多門祭も率先して行ってきた。市立美術館は,開館して(これも文化協会の働きかけが糸口になったと聞く)かれこれ15年になる。顕彰は軌道に乗り,多門の名は,引き続き若い人にも伝わっていくことだろう。しかし,没後60余年を経て,主要作品も行方の知れないものが多いため,多門のことか詳しく伝えられているとは言い難い。唯一のまとまった資料が,多門の没後4年目に編まれた「山内多門画集」(昭和11年7月20日発行)である。これを手掛かりに他の資料を探し,多門の歩みをできるだけ詳しく辿ってみたい。先ず,多門の画家人生を次のように捉えて,ここでは前半のABを述べることにする。A.明治26年〜32年:郷里での画技習練時代(上京の決意まで)B.明治32年〜37年:都洲時代(上京後の学僕時代,結婚まで)C.明治37年〜大正3年:「多門式」描法の誕生E.大正8年〜昭和6年:金剛山の画家(帝展時代)Al く誕生年の謎〉多門が生まれたのは,かつての島津家士族の住宅街の家であった。都城は,明治4年,新県設置の令で都城県となり,6年には宮崎県に,多門の生まれた11年ころには鹿児島県になっていた。多門は明治11年4月29日に生まれた。「山内多門画集」にも,また,多門の次男山内誠二こ氏に確かめても,明治11年である。ただ,多門が上京前に奉職した小学校の職員履歴書だけが,族籍宮崎県士族,本籍日向国北諸県郡都城町下長飯村206番戸,誕生明D.大正4年〜7年:官展作家として(文展時代)-555-

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