10年の西南戦争で戦死して,多門が生まれなければ,山内家にはもう,一人の男子も治36年春の第14回日本絵画協会,第9回日本美術院連合絵画共進会(以下,第X回院ら何かの都合で偽っているものとしか思えない。多門は末子の三男である。父56歳,母48歳のときに生まれた。兄はふたりとも明治残ってはいなかったのである。そのことは,共に出陣した兄の死にあって,次男が書き残した遺書によって明らかだ。これで山内家には男子がいなくなるから,と親の行く末を案じた文面なのである。もし,多門が明治9年に生まれていれば,このころはすでに1歳のはず。兄の遺書と矛盾する。小学校奉職の年,明治27年12月に,多門は父を中風で亡くす。父はしばらく病床にあったらしい。多門の家は,家屋敷のほか,1反2畝の田と,1反6畝の畑を持っていたが,貧困を免れなかったという。早く職につく必要に迫られて,多門はやむなく年齢を偽って奉職することにしたのだろう。その一字が多門に続く(因みに多門の長男は多美夫。次男は誠二だが,長女は喜美子)。多門は上京後の初出品の時から,都洲という郷里に因んだ号を用いるが,それは明展と略す)までで,以後は多門である(改名の動機については後述)。後年,淀橋蜀江山に居を定めてからは,蜀江山房。房州保田の藪が谷に自足園という別荘を設けてからは,自足子,藪谷山樵などの別号を用いることもあった。南淫(文政13年〜明治30年)という狩野派の絵師に入門する。年末には,小学校の教員免許をとり,翌27年5月都城尋常小学校に奉職。12月父を亡くす。それから3年後多門は,小学校の先生を続け,山内家の跡取り息子として月給は全部母に渡した。しかし,学校では,教授はそっちのけで至るところで絵を描いており,たびたび校長に諭される始末だったらしい。しかし,32年3月8日,20歳の多門はついに小学校を依願退職する。上京して絵で立つために。治9年4月29日と記す。信頼できる資料だけに戸惑うが,これはしかし,次の事実かA2 く名前〉多門という名は,号のように聞こえるが本名である。母の名が多喜子で,A3 く志を立てるまで〉明治25年,都城高等小学校を卒業した多門は,翌26年,中原の30年8月23日,師の南淫も逝く。多門が師事して4年になる年であった。-556-
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