A4 く画技習練の下地:都城の美術事情〉明治32年春上京した多門だが,秋にはもう第2回院展に「水鏡」を出品した。それは,72名の3等褒状の内の13位(最高位の銀牌から数えると70位)をとった(上京後の作品で,印刷物などででも絵柄が確認できるものは,33年春の第3回院展「三顧草薩」以降で,この「水鏡」は確認できない)。半年足らずで入賞するとは,よはどの努力があり,また,上京以前の技量の下地にもかなりのものがあったのではないか。上京以前の作品を見てみよう。中原南淫に師事した明治26年2月14日作の武者の下がき,同11月1日作の花鳥「常盤御前」,27年春の花鳥,28,29年の和田合戦図縮模上京前までの作品は確認されない。さて,この和田合戦図の元の絵は,多門が勤めていた都城小学校に伝えられた六曲一双の屏風である。作者は,狩野養朴の画風を慕って江戸に赴いた竹之下信成。この絵に向い合って,多門は仕事を忘れていたのかもしれない。当時は一双完全にあったものが,今は半双だけになり,都城市立美術館に寄託されている。多門の師事した中原南渓は,木村探元に連なる能勢一清に学び,高然暉山水(都城市立美術館蔵)や鷹図(都城市個人蔵)を残す。この狩野派の鷹図を,昭和2年時点,多門が蔵している。木村探元の流れを汲む都城の絵師は,他にも,山路探定,長峰探隠がいる。探元と,探定の高然暉山水も確認できる。長峰探隠の家系である都城の菊池家に,探隠の竹林七賢図や,探元と伝える作品がある。ここには他に,八田知紀の短冊や,多門,勝田蕉琴,飛田周山,野田九甫の小品も残る(一部を残し都城市立美術館に寄贈,寄託)。菊池家は,山内家と婚姻関係にあり,多門も幼児期から行き来している。多門が,中原南埃についたのも,菊池家で,探隠や探元の狩野派の画風に親しんでいたからだろう。蕉琴,周山,九甫は,大正12年春に多門が伴って来たものである。多門は,大正7年正月,母の看病のため帰省の折もここに3ヶ月ほども世話になり,その礼に「尻無麦秋」を当主菊池宗ーに贈っている(宗ーはその返しに探元の「雁行」を多門に譲る)。この「尻無麦秋」は,「薩南六題」(第11回文部省美術展覧会)と一連の作で,菊池家より美術館に寄贈されている。の5点が確認される。よく写していると思う。残念ながら,師南渓の逝った30年から,-557-
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