A5 <「日本美術」を見て〉多門の上京の発端は,日本美術院発行の「日本美術」に多門は,南淫のはか速見晴文(文政4年〜明治35年)の門にも出入りし,しきりに絵のことを学び,常に熱心に画筆を弄していたという。多門は,昭和2年時点,晴文筆の花菖蒲の絵も蔵している。多門は都城から,南渓の「應」と,晴文のこの絵を東京まで持って行ったのだ(これらの図版は東京で印刷された本に掲載されている。しかし,「應」は今,都城市内の個人所蔵になっており,疑いも残る)。晴文は,和歌を八田知紀に学び,鹿児島で,絵を竹下寒泉と和田芝谷に学び,さらに長崎で医学を学んだ知識人である。そして彼は松村景文の写生画を愛した。多門は,後年,蕪村などを研究し,画風に取り入れていくが,その趣向は案外こんなところに端を発しているのかもしれない。また,南埃のもうひとりの弟子,高野松濤(安政元年〜大正6年)は,後に大分の人に師事したといい,賛のある南画風の梅の絵が都城市立美術館に入っている。多門より24歳年上の松濤と多門とが出会ったものかどうか。推量の限りではあるが,このようなことからも,当時の都城の,種々の入り組んだ美術事情が見えるようである。ある。いったい,多門はこの雑誌にどこで出合ったのか。ある資料(a)は「東京の某新聞の広告欄」で知ったとする。では,その東京の新聞をどこで見たのか。勤務先の小学校か。別の資料(b)は「その頃常に在京の友人より送り越せる美術雑誌」とする。資料aで話を進めよう。その広告を見た多門は,「東京の美術はどんな風だろう」と見たくてたまらない。しかし金は母に渡して自由にならない。思案の果てに母に打ち明け,5,60銭を貰い2,3冊注文した。「日本美術」は1冊15銭であった。「大観の屈原その他立派な絵がたくさん載っていて(「日本美術」第1号は,院創設の旨趣を述べ,大観の屈原ほか,雅邦,観山,春草など29点の作品を紹介する。第3号にはフェノロサの日本絵画論を掲載。),どれを見ても今まで習った絵とは違う。……今までの習った絵は何だろう。この絵を見よ,その精その妙実に造化の真に入りておる。しかし,その描き方はどうしてやったか想像もつかぬ。田舎では駄目だ。」というわけで,矢も楯もたまらず上京を決意する。決意したはいいが,「乞食同様の絵かきになるためにわざわざ上京するとはけしからん」と親戚中の反対にあう。しかし「それほどの希望ならば」と母が折れ,徴兵検査-558-
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