鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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密接とは言いがたい関係は,成立の時期が異なったこの三者の観音像の共通点と言える。成立年代がより早かった楊柳観音の場合には,経典との関係が稀薄であることの現れとして,その形象は他の早期の観音像と比べて特に相違点は少なかったと考えられるが,その持物とする楊柳は観音像の標識の一つとなって,後の水月観音や白衣観音の手に持たれたり,或いはその傍らに置かれたりする図様でよく現われているのである。ところが水月観音或いは白衣観音の場合には,経典に記された内容に拘束されるのではなく,制作者の想像力が自由に発揮でき,伝統的な重々しい仏画から脱して,人間らしい造形が表現されたと考えられる。この点は五代・宋時代に描かれて現存する水月観音図,或いは白衣観音図に見られる観音の造形に一致するのである。また,前にも述べているように,十三世紀以前に描かれた水辺の風景が表出された白衣観音図の制作地の地域範囲は,中国において水月観音が発展した地域範囲内を越えないのである。そうすると,この水の畔の景物を背景とする白衣観音図は,水月観音図と同じように,中国における補陀落山信仰の展開との関係が深いと言えるし,そして,五代・宋時代以来,山水画の発達の影響をも受けたと考えられる。海や大湖を遥かに離れた北方や西の内陸地には,山水表現を背景とする水月観音図,或いは白衣観音図があまり発展しなかったという現象を考慮すると,中国における補陀落山信仰の成立は,その自然風土との関係が深いのであり,水難救済という信仰功徳は,その成立の重要な要因の一つであると理解できる。そして,このような考え方の上に立ち,宋王朝文化と同時代の他民族の文化の本質がきわめて異なっていたことが,再認識されたのである。さらに敦煙地区で形成された文化は,ちょうど宋王朝と周辺他民族との間の中間地帯に位置していたのであり,敦煙はこの両者の文化交流の仲介役を果たしていたとも言えるのである。そして,五代・宋時代において山水画や人物画などのジャンルが発達し,一方,観音の化身救済の功徳への信仰が,人々に根深く浸透した。この両者が密接に結ばれたことによって,五代・宋時代における水月観音,白衣観音,楊柳観音が経典に述べられている図像の規範を離れて,より自由に表出されるようになったことは,これらの三観音像の表現の基本的な共通点であると言える。成立の初期段階において,水月観音は水辺の景物を背景とした世界に,正面性の強い伝統的な観音の造形から外れて,より柔らかく,くつろいだ姿となり,白衣観音は頭から布や吊を被って,白衣を着ているということを一つのポイントとし,楊柳観音は,楊柳を持物とするというのがそ-46 -

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