鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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までの2ヶ年の暇と田一反歩を与えた。姉も「母のことは自分でひきうけるから一生懸命修業してこい」と言ってくれた。多門はその姉に68歳の母を託し,田を売った金350円を持って「これを元手に成功するまでは二度と故郷の土を踏まぬ決心で」上京した。上原勇作が頼りであった。ということだが,これと資料bとの相違点をあげてみよう。bでは,徴兵検査は,上京の前年(20歳)に不合格となっている。反対されたことについては,さんざん思案を巡らして,遂に近親の税所愛熊に打ち明け,姉婿藤井新平に頼って母を説得した。売った田地は山内家が所有していた1反2畝全部。値は336円。これを旅支度と旅費と学費に充てるが,3年はこれで保つだろうと,母に3年の暇を乞うたという。そして,たまたま上京の用事のあったこの税所に同行して上京し,本郷あたりの下宿に落ち着いた。上野は桜が満開で,絵画展が割れんばかりの盛況を呈していたという。Bl く川合玉堂最初の門人〉着京早々,多門は陸軍少将の上原勇作を訪ねた。当時,上原は,東京で鹿児島郷友会の学生監督であった。多門は,郷友会都城支部の幹事山下盛徳から与えられた上原宛の添書を携えて行き志を話した。美術の方につてのない上原勇作は,先輩の川上操六(参謀総長)に多門を紹介することにした。川上が,絵を好み画家に知人の多いのを思い出したから。多門は,今度は上原からの添書を携えて川上を訪ねた。すると,「ヨシヨシ,先生は己れが世話してやるから安心せよ。マー1ヶ月くらいはドコトナシ東京市中をマグレアルケ」と話され,その晩は夕食まで馳走になり,宿に帰り着いたのは十時過ぎであったという。1 ヶ月後,多門は川上を再訪する。そして,川合玉堂宛ての紹介状をもらうと,翌日には玉堂を訪れた。玉堂は25歳。21歳の多門が最初の門人であった。それから1年余通学して,遂に内弟子になった(2年後の明治35年からは須田利信宅に寄寓)。翌33年11月,玉堂は多門を自ら雅邦のところへ連れて行った。「暇さえあれば,かつて筆を放したことがなく,……あまりに熱心なので私も全く感服し,やがて橋本雅邦先生にご紹介し」と玉堂が書いている。B2 く雅邦の「繹迦十六羅漢」と多門,玉堂,川上〉明治28年,京都での第4回内国勧業博覧会に出品された雅邦の「繹迦十六羅漢」(1等妙技賞)は,多門,玉堂,川上の3人に因縁がある。川上は所蔵者(32年4月現在)として。玉堂は,人生の分岐点-559-

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