鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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B3 〈日本美術院での研鑽:都洲時代(明治32年〜36年)〉を決したものとして。実は,同展に,玉堂も出品していた(「長良川鵜飼」3等銅牌)。そこで,雅邦作品と出合い,感激して上京を決し,翌年雅邦に師事したのである。玉堂は雅邦を通じて川上の知遇も得,30年には,川上新邸の襖絵を描いている。多門は,そうしたところに現れた朴訥な青年だった。そして,彼は,37年,雅邦の絵に習い「十六羅漢」を描くのである。思えば多門は,誰に紹介されるのかも分からない状況で,ともかくも上原を頼った。そして,川上に。川上は,よくぞ多門を玉堂に引き合わせたと思う。多門が,上原に,そして川上に志を話すとき,自分に上京を決意させた「日本美術」のことを話さずにはおかなかっただろう。雅邦と親交があり,また,若い玉堂についても2年ほど前から後援している川上のことだ。多門の口に出てくる「日本美術」所載の絵の話を通して,多門の趣向なども聞き取ったのではないか。意を決して京都を引き払って来た玉堂と,多門の心意気とが,彼の脳裏にオーバーラップしたかもしれない。多門が,川上のことばに従って東京見物をしている1ヶ月の間,多門の運命は川上の差配に委ねられていたのであった。さて,雅邦の「繹迦十六羅漢」は,ほかに「龍虎」(岩崎某蔵)という作品とともに博覧会に出品されたものだった。ふたつは互いに画風が異なり,同じ作家ながら,新と旧を対比して見せた。評は圧倒的に旧を取るものが多かったが,新を取る際立った論評がひとつあった。玉堂はどちらに引かれたのか。いや,そうではなく,絵というものの地平の広さ,展開の可能性を,この対比の中に見て取ったのだろう。多門がこの「羅漢」に(おそらく川上邸で)出合い,その画技を盗もうとしたのは,それから9年も後のことである。同じ作品を目にしたのであっても,多門は作品の表にある技術を見,玉堂は,新しい時代が,絵画の存在の内側から開かれつつあるのを読み取った。それも9年も早く。この違いは,玉堂が新旧の作品を同時に見たことから来るのか,それとも,絵を見る目の違いなのか。川合玉堂に師事したことから,多門は日本美術院で研鑽を積むことになる。初出品の第2回院展から明治36年秋の第10回展まで欠かさず出品し,第3回展を除いて全て-560-

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