入賞する。はじめ3等褒状であったものが,回を追って上位になり,第10回展では銅賞第1席になる。このとき,彼はもはや都洲号を名乗らず本名の多門で出品している。第9回展では,号都洲と本名多門とが併用されている(図版不明瞭のため,判読)。これより先の36年3月,多門は,第5回内国勧業博覧会に「西王母」を出品,入選している。そのことが自信となって,多門に名を改めさせる気持ちを引き起こしたのではないか。もう「都城の多門」ではないと。上京以来はじめて郷里に帰るのもこの年である。多門は25歳,母は73歳になっている。なお,多門は,美術院の絵画研究会(第2期)にも明治35年から4回参加している。さて,この時代,多門はどんな絵を描いているのだろう。明治32年秋の展覧会初出品作「水鏡」は確認できない。同名の作品が菱田春草(30年秋,日本絵画協会第3回絵画共進会。東京藝術大学藝術資料館蔵)にある。ひょっとして,これに学んでいやしないかと仮定してみたくなる時期である。上京後の作品で実見できる最も古いものが「闘鶏」(34年秋の第6回展3等褒状。須田家旧蔵。宮崎県立美術館所蔵。紙本)。これは雅邦の「猿廻し」(30年,日本絵画協会第3回絵画共進会。東京国立博物館蔵)を思わせる。また,こどもを負う母親の顔は,「農村風景」(落款印章から推定36年作。都城市立美術館蔵)の母親の顔と瓜二つだ。35年の第8回展「二喬読兵書」(1等褒状)は,図版での確認だが,同じ都洲号の作品「唐美人」(都城市立美術館蔵。山内誠二旧蔵)と似た作風だ。同名の作品が玉堂(27年,京都市美術工芸品展覧会で3等銅牌)にもあるから比較したいが,絵柄が確認できない。36年仲秋の「竹林七賢」(宮崎県立美術館蔵。須田家旧蔵)。作風は「闘鶏」の庶民性と「二喬読兵書」の高貴さとの中を取り,線の加減を引き締め,硬くして,七賢らしく整えたような感じのものだ。菊池家にあった長峰探隠の「竹林七賢」(都城市立美術館寄託)からすると,人の体温が感じられるようになった七賢である。最後に,昭和2年の図版で「十六羅漢」(明治37年第3回二葉会大会2等賞)を見よう。雅邦は「ただ顔が十六並んだのではいけない。……羅漢になってそれぞれの心持を見せなければならぬ。……こういうものは形より心が先に立ってやらないといけなしヽ」と評した。これが,前述した因縁の作品である。-561-
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