鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
573/747

この時期が,多門の「学生時代」であった。テーマまるごと,玉堂に,雅邦に学んでいる。37年末,多門は玉堂の門下生と,師のはからいで結婚した。くおわりに〉この年から,二葉会,二十H会,美術研精会に出品するようになった多門は,38年5月の第4回二葉会展に「わんわん」を出品,1等賞をとる。これは,母親に抱かれた幼児と犬の触れあいを描いたもので,これまで山水や,羅漢など実在しない人物をテーマにしてきた多門にとって新しい一歩であった。この題材には周囲も驚いたようだが,振り返って,34年の「闘鶏」,36年の「農村風景」を見れば,そこに庶民の情景を写し取る多門がいるではないか。「わんわん」ではそれがいっそう進み,もはや他人事の叙景ではなく,他人のテーマを借りるのでもなく,自らの心情により近いものになったのだ。これから大正3年までの間に,多門は国画玉成会や文展に「多門式」と呼ばれる特徴ある描法の作品を発表し,画家としての地位を築いて行く。大正3年,再興第1回院展に入選するが,4年以降は官展作家として生き,大正8年,第1回帝展に「天龍四季」を発表。審査委貝となり(第5回展では主任),作品も多門ならではの「金剛山」の連作を発表。ここへ来て多門は,20歳の志を果たし,昭和7年5月30日,54歳で逝った。-562-

元のページ  ../index.html#573

このブックを見る