12世紀以降の多くの作品に踏襲される。6)から,記録に名ののこらないがその存在が推定される専門の経画師まで,幅広いし,後者の正面構図は,近景の土域の広がりを強調し,抽象化した遠山をすやり霞に浮かべて嬰行きの浅い空間をつくっている。後者の,高伝寺本をもふくむところの正面構図が,平安時代の紺紙金字経見返絵の主流となるが,この系統のなかでも,画面構成には時代的変遷がみられる。正面構図の系統の画面構成の変化の大まかな傾向を述べると,11世紀の金剛証寺本のように崖や岩の重なる複雑な地形のなかに,数多くのモチイフを描き込む集積的な構図から,天永4年(1113)の金剛峯寺本のように,画面上方の遠山や霞と,下方の土披のみからなる単純な構図をへて,12世紀半ばの百済寺本のような定型へと移行する。紺紙金字経の構図における定型(注5)とは,上方に三山形式の遠山,下方に土披をたたみ,限定された画題をあらわすモチイフを配するというもので,この定型が,以上のように画面構成が時代にしたがって変化することに加えて,同時代の作品の間でも,画風にいくつかの系列がみられる。この画風の変化は,作者のちがいにもとづくものであろう。法華経の書写供養が盛行をきわめた平安時代には,宮廷画師(注層の画師が経絵制作に関わったと考えられる。画風に多様性をたもちながらも,画面構成には一定の時代的変遷の傾向をしめす経絵のなかで,高伝寺本と,表現形式の上でとくに共通点の多いのは,百済寺本,唐招提寺本,厳島神社両筆本(〜承安2年=1172)の3作品で,その制作はいずれも12世紀半ば以降と考えられている。そこで以下にこの3作品との比較により高伝寺本の制作年代を検討する。このうち百済寺本は,整理された構図,整然としたモチイフ配置,均整のとれた仏菩薩の体躯,のびやかな鉄線描などから,一連の作品の中でもっとも早い時期の作と考えられる。唐招提寺本,厳島神杜両筆本となるにしたがい,定型構図から離れ,モチイフ配置が分散し,仏菩薩の体艦の均整がくずれる,という傾向にある。さらに描法についてみると,百済寺本では,謹直な鉄線描と,軽やかで表現力をもった線描の二種をモチイフに応じて使い分けているのに対し,時代が降るにつれ画ー的な描線を用いるようになり,金銀泥の平板な使用が目立つようになる。高伝寺本は,構図の上では百済寺本の定型をほぼ踏襲しているが,仏菩薩の体謳がやや縦長になり,描線がより細く慎重であることから,百済寺本より降り厳島神社本-566-
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