注(3) 『御寄附物帳』(安政2年佐賀・鍋島報炊会所蔵)(4) 画題選択に関しては,(注2)前掲論文参照。この定型が経意絵の舞台として適切な自然な奥行きを実現していたことは,同じ唐という源に発すると考えられる宋や高麗の法華経見返絵が,当時すでに,画面形式や構図において日本のそれと大きく異なるものになっていることを考えると(注9),平安時代絵画の造形の基本的特徴として見逃せない。平安時代の絵画を代表する,現在失われた大和絵障屏画には複数の和歌が詠まれていた,つまり何らかのストーリーを詠み込む舞台としての風景表現が必要とされていたことが考えられる。大和絵と経絵は主題を異にするとはいえ,どちらも自然の風景を舞台にある種の情趣なりストーリーなりを展開させるという共通点をもつ。高伝寺本をもふくめ,平安時代の経絵の存在は,当時の大和絵の風景表現を想像するひとつの手がかりとして,重要な意味をになっている。(1) 家永三郎『上代倭絵全史』『上代倭絵年表』(改訂版,1966年,墨水書房)(2) 高伝寺本の紙高は24.5■24.9糎,紙幅は42.5■46.8糎。拙稿「佐賀高伝寺の紺紙金字法華経見返絵」(『佛教藝術』224号,1996年1月)参照。(5) 須籐弘敏「平安時代の定型見返絵について」(『佛教藝術』136号,1981年5月)(6) 天暦8年(954),飛鳥部常則が村上天皇哀筆経表紙絵に奉仕している(『天暦御記願文集』)。(7) 小林達朗「東大寺本善財童子絵巻の形成」(『美術史』127号,1990年2月)(8)拙稿「紺紙金字法華経見返絵と仏功徳蒔絵経箱装飾画」(『デアルテ」10号,1994年3月,九州藝術学会)(9) 亀田孜「法華経見返絵と中尊寺経絵」(『佛教藝術』72号,1969年10月)-569-
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