⑮ 清凍寺釈迦如来像の受容について研究者:文化庁文化財保護部美術工芸課文部技官寛和三年(九八七)に宋より帰朝した東大寺僧裔然(注1)がH本にもたらした現京都清涼寺の本尊,釈迦如来像は将来当初から,釈迦在世時の面影を伝える霊像として僧俗の崇敬を受けたことが知られている。しかしこの像がわが国の彫刻に与えた影響については一般にほとんど皆無であると考えられている。具体的な形のレベルでの影響でいえば確かにそうだろう。この像のかたち,とりわけその頭髪や着衣形式,あるいは異国的顔立ちといった点について同時代あるいはそれ以後平安時代を通じて彫刻作例にその影響の痕跡をみることはできない。しかし影響とはそうしたかたちの次元のみの事柄とは限らない。より大きな意味で,この像の存在が当時の日本の造像のありかたになんらかの揺さぶりをかけたということは考えられないだろうか。ここでは裔然により釈迦像が将来されてから四年後,正暦二年(九九ー)に造られた河原院釈迦如来像に注目してみたい。裔然の釈迦像将来清涼寺像は中国にいくつか存在した優填王思慕像たという由緒をもつ釈迦瑞像内裏の滋福殿より啓聖禅院に移された像を同院において臨模して造られたことが,裔然に随行して渡宋した弟子盛算の手になるとみられる記文(『優填王所造栴檀釈迦瑞像歴記』付記)にあり,この由緒は一般に信じられてきた。しかし昭和二十九年に像内から発見された納入品中の『裔然入宋求法巡礼行井瑞像造立記』には,造像が帰航直前の台州においてであり,直模ではなく「様」すなわち下図もしくは手本に依って製作されたことが述べられている。このことより清涼寺像を開封所在像の模像であること自体を疑う考え方(注2)もある。たしかに釈迦像が製作されるにあたって参照された優壌王思慕像の「様」が開封所在イ象のものであったとは『造立記』に述べられていない。清涼寺像の形姿が開封像のそれと一致するかどうか確かめるすべはない。しかし少くともそう称されて将来されたことは確かだろう。寛仁三年(-0ー九)盛算を清涼寺阿闇梨に補任する旨の太政官牒(『伝法潅頂雑要抄』裏書)にある「於東都禁中(拝)万歳主所造釈迦牟尼仏栴檀の一つでもと楊州開元寺にあり,裔然在宋中に開封釈迦在世中に優填王が造像し奥健夫-573-
元のページ ../index.html#584