鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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八0)に供養が行われたが,移建に当ってちょっとした出来事があった。円仁は五台像」という記述は盛算記に育然一行が滋福殿で瑞像を拝したとあることと一致し,この時点で清涼寺像に開封所在像の模像としての由緒が付されていたことは明らかである。そしてそれはおそらく奇然帰朝時まで遡るとみてよい。『覚禅紗』ほかに引かれる奇然在宋中の日記には宋土において彼が見聞したさまざまな文物についての知見が記されており,彼の事相に対する関心のほどがうかがえるのだが,とりわけ塔婆の形状について述べる「本朝以撞卒堵婆訛也。卒堵婆者,塔廟短狭無露盤也」といった言葉は,音然の求法が未紹介の文物をもたらすだけではなく,これまで日本において行われている仏教知識を漢土のものと照らし合わせて是正する目的をもっていたことを示している。釈迦像はいわば彼地におけるそうした求法の成果の象徴であり,本当のところはどうあれ,その由緒についての説明は帰国時に当然用意されていたとみるべきである。音然と延暦寺教団音然が天元五年(九八二)の入宋にあたってまず目的としていたのは五台山の巡拝である。帰国後かれは愛宕山に五台山に擬した伽藍を建立しようとする。愛宕山建寺興仏は天禄三年(九七二)義蔵との結盟の時にすでに構想されていた。比叡山にはすでに円仁により,五台山信仰を移植して文殊楼が建てられている。康保三年(九六六)焼失の後,安和二年(九六九)虚空蔵峰に移建されて天元三年(九山の土石を将来し(『入唐新求聖教目録』ほか),文殊楼が建てられるにあたり壇下に埋めたのだが(『日本三代実録』貞観十八年三月条),焼け跡からこれを採取しようとしたところ他の土と混じって分別できなくなっていたのである。座主良源がたまたまある箱を開いて「台山獅子土」と記した紙を添えた土を見出し,これを新たに埋めることで事なきをえた(『慈恵大師伝』はか)。このことが音然に直接刺戟を与えたかどうかは判らないが,ともかく比叡山におけるこうした由緒の存続させ方に対するアンチテーゼのように彼の構想があらわれてくることに注意すべきだろう。五台山の石は裔然の帰朝より遅れてではあるが,宋商良史から盛算の許にもたらされ,長元四年(一0三ー)九月に源経頼が清涼寺で観覧している(『左経記』同月条)。裔然は天台山への参詣も希望し,延暦寺は天台山国清寺に牒状を発行して便宜をはかっている。山門僧をまじえて念仏結社を営んだ文人貴族で,のちに出家して横川に-574-

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