鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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入った慶滋保胤(寂心)と入宋前,共に西方浄土に往生する契りを結んでいた。しかし塚本善隆氏が指摘するように義蔵との結盟以来,彼に東大寺僧として延暦寺教団への対抗の意志があったことは確かだろう。永延二年(九八八)愛宕山に戒壇を建立する旨の宣下があったが山門の訴訟により改定された(『帝王編年記』)のが本当ならば,このとき奇然と天台教団との確執は一挙に顕在化したはずである。『阿娑縛抄』巻第四十六の薬師如来消災除難念誦儀軌の注記に「音然者。非自門自宗。粗有狂惑名。頗難信用欺」とあるのはそうした確執の残響かもしれない。なお『続本朝往生伝』には寂照(大江定基)が宋地で飛鉢の法を行ってみせたところ人々が「日本国不知人。令裔然渡海。似表無人。令寂照入宋。似不惜人」と言ったという逸話がある。寂照は寂心を師として出家,源信に天台を学び,長保五年(-00三)に入宋すると源信より託された『天台宗疑問二十七条』を四明知礼に渡した人物である。また『江談抄』に橘直幹の歌を裔然が宋地で一部語句を変更して自分の作と称したところ唐人に元のように直されたとあるが,この話は宋地の寂照から大江家に伝えられた可能性がある。これらからみると,どうも寂照あるいはその周辺に音然に対する悪意が存在したように思える。河原院の釈迦像河原院はもと源融の邸宅で六条坊門南,万里小路東にあったとされる。釈迦像は康尚が造り,発願者は仁康であった。仁康は良源の門下と伝えられる。釈迦像が造られるとこれを本尊として五時講が行われた。厳久,明豪,静昭など山門の明匠が日替わりで講師をつとめて説経論議がなされ,聴聞には叡山から源信や覚運,南都からは真興や清海など七大寺よりこぞって参集し,また三河入道(寂照)や内記上人(寂心)も加わったという(『続古事談』)。大江匡衡により造られた願文が知られている(『本朝文粋』)が,その中の釈迦像について述べた次の一節は,こうした文章としてかなり特異である。「昔l'7J利天之安居九十日。刻赤栴檀而摸尊容。今践提河之滅度二千年。螢紫磨金而礼両足。彼大王之力也。五尺猶個天工。此貧道之功也。丈六適叶人望」優填王像を引き合いに出すこと自体は造像願文では常套なのだが,問題はその出され方である。こうした願文はたとえば「馳干填之誠,輪葵之功,龍宮自写,毘首之功,尊顔更開」(『日本三代実録』貞観元年四月条安祥寺願文)という風に,単純に像の作-575-

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