者を優填王像を造った毘首褐磨になぞらえるのが一般的である。それに対してここでは赤栴檀と金色,五尺と丈六とその違いを強調し,向こうが「大王の力」によるのに対してこちらは「貧道の功」に過ぎないとへりくだりながらも,だからこそそのぶん像を美しく大きく造ったのだ,と誇っているようにもみえるのである。同じく匡衡が作成した長保四年(-00二)十月の一条院法華八講の願文(『本朝世紀』)で白檀釈迦三尊の造像(これも康尚の作)を「擬優填国王舎衛国王恋釈腺,以赤檀紫磨,始写其形之玄風,課奇肱奉造白檀釈迦普賢文殊」と優填王造像の故事に屈託なくなぞらえているのとは対照的な,屈折に満ちた表現というほかない。そこには常套的表現を許さないものが存在したに違いない。この願文の読み上げられる場において,五尺の栴檀像と聞いて四年前に日本に華々しく登場し,この年蓮台寺から棲霞寺(清涼寺)に移された裔然将来の釈迦像を思い起こさない者はなかったであろう。またそれを意識してこの文章が作られたはずである。ここには願主仁康をはじめ山門僧の育然将来像に対する複雑な思いが反映されているとみることができるのである。大安寺の釈迦像さて,この河原院釈迦像が奈良大安寺の釈迦像を模したものであったことはよく知られている。そのことを述べるのが時代の下る『続古事談』であるのがやや気になるが,同記事は全体に詳細で史実にだいたい合うことから,とりあえずここでは本当のところを伝えていると見なしておく。原像である大安寺像は天智天皇の発願になる乾漆像で,記録(注3)によれば迎接印もしくは右手に施無畏印を結び,左足を上にして組んで坐り,光背には化仏と飛天各十二体および多宝塔がついていたという。『七大寺巡礼私記』に薬師寺金堂本尊が大安寺像を除き諸寺仏像に勝ると述べられており,院政期には名作としての評価が確立していた像である。ここで康尚により模像を造られるにいたるまでこの像がどういう評価を受けてきたかをみてゆこう。『日本霊異記』には聖武朝における大安寺釈迦像の威光を述べる説話が二編収められている。一編(上巻第三十二)は天皇の鹿を殺して食した咎で捕らえられた十余人が大安寺の釈迦に祈願したところ大赦を得たといい,いま一編(中巻第二十七)は生活に困窮した一女人が同像に福分を願ったところ奇瑞により銭を得,のちに大いに富裕となったという。いずれにおいても釈迦像は「衆生の願う所を速やかに施す」ことで有名な仏像として述べられている。『大安寺碑文』(宝亀六年=七七五)になると「仏-576-
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