工権化,無有再来,以之誦之,不虚応芙,妥天人降臨,讃相好之妙体芙」と,その姿のよさが礼讃されるようになる。『大安寺縁起』(寛平七年=八九五)ではやはり天女が降臨して賛嘆し,天智天皇に「好相已具,与霊山実相奄麓無相違」と述べたといい,のちに文武天皇が天智にならい自分も丈六像を造ろうとしたが良工を得られず,夢に現れた一沙門の「往年造此像者是化人也。非可重来。雖有良匠猶祈斧之蹟。雖云画師登無丹青之訛。宜以大鏡懸於仏前拝其映像」という言葉に従って大供養を行ったという話を付加している。この話で文武天皇が模像を造ろうとしたとは必ずしも言っていないのだが,同じような像を造ることができないことを悟って鏡に像を映すことでこれに代えたという顛末からは,それが模像製作を問題としていることが強く印象づけられる。ここで釈迦像はいわば「模造を許さない像」として語られているといえる。ほぼ同内容が『三宝絵詞』(永観二年=九八四)にもあり,それから七年後の康尚による模像製作は,こうした百年も前からある当時の常識に敢えて挑むという意味をもっていたのである。模像をつくるということ河原院像の製作にはおそらく模像に対抗するには模像をもってすべき,という意識があったに違いない。しかも両者は同じ模像でもその性格がまったく異なるというところが肝要だった。裔然将来像は「様」に拠ってつまり実物を見ないで造っただけあって,頬の長いのっぺりした顔立ちや肩幅の狭い体型にははっきりと宋代江南造像の作風の特色が表れている。裔然にとっては髪型や着衣の特徴的な形式が具わっていれば充分だったのである。それは仏像の模像製作ではむしろ普通のありかたといえるだろう。仏像が模造される大きな理由は,由緒深いまたは霊験あらたかな“瑞像”のかたちを写す事によって,原像の由緒や霊験が分け与えられるというところにある。清涼寺像は平安末期には自ら天竺に帰るという噂が立つ(『宝物集』)ほど釈迦そのものとして信仰されていたし,同じころ京都補陀落寺像の模作である奥州毛越寺吉祥堂の十一面観音像も“生身”であるという託宣によって厳重な霊像とされていた(『吾妻鏡』文治五年九月条)。こうして模像は原像の分身とみなされ,たとえば勧進におけるシンボルとして人心収攪に利用されたりする。この場合,像には見る者が普通の仏像と区別して,それが何の模像と認識できるだけの特徴があればよい。河原院像はおそらくこうした種類の模像ではなかった。大安寺釈迦像はそれなりの_577-
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