由緒をもっていたが,由緒だけでいえば育然将来像にとうてい太刀打ちできない。ここではおそらく育然将来像の圧倒的な由緒に対抗するものとして,大安寺像の姿のよさが求められたと思われる。また「模造を許さない像」をあえて模造してみせる,ということは康尚にとっても大きな意味をもったであろう。ただし河原院像が大安寺像を厳密に模造したものだったとは考えにくい。のちに定朝が薬師寺唐院八角円堂の本腺として,やはり大安寺本尊像を模した丈六釈迦像を造っており,その光背かとみられるものが現存している。舟形の輪郭や頭光の左右下縁から垂直に圏帯を下ろす構成,また痕跡から推定される周縁部の外縁に飛天を巡らす形式はたしかに七世紀風であるが,下縁に光脚を配したり周縁部を唐草文で埋めるのは天平後期以降の形式で,各部の意匠は基本的に当世風に表されている。製作年代は造らせた輔静が薬師寺別当であった長和三年(-0ー四)からの二十三年間とみられ(注4),河原院像より二十年以上おくれる造像なので条件はかなり異なるが(注5),ともかくここにはあまり原像にとらわれない自由な制作態度をみることができる。「仏を見奉れば,師子の御座より御衣のこぼれいで給へる程,いみじくなまめかしく見えさせ給」とは『栄花物語』の万寿元年(-0二四)法成寺薬師堂供養の条にみえる言葉であるが,ここで賞賛されている蓮華座(続く文章からわかる)に懸かった衣が蓮弁の輪郭に合わせてたわむさまの表出は唐から輸入されて八世紀を中心として流行したものであった。康尚や定朝は古像から,王朝貴族の鑑賞眼に適うこうした要素を取り出して自らの造像に再現してみせたのである。河原院釈迦像もまた大安寺像から印相等の基本的な特徴のほか,そういった要素を効果的に取り入れながら全体に当世風にまとめた像だった,ぐらいに考えるのが適当なところだろう。興然『図像集』に「或人語云,祇陀林寺釈迦文仏眉間安銀小仏像云々」という記載がある。この記事は大江親通の『十五大寺日記』よりの引用とみられている(注6)。祇陀林寺像とは長保二年(-000),河原院より同寺に移された釈迦像のことである。眉間に銀仏を納めることで知られていたのは大安寺像ではなく養老五年(七ニー)に造られた興福寺中金堂の釈迦像であった。同記事から河原院像が大安寺像を模しながら,他像の造像作法をも取り入れていたとみることも可能である。ここで想像した同像の製作態度を裏付けるものとしていちおう注意しておきたい。-578-
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