結び育然の釈迦像将来が突き付けたのは圧倒的な「由緒」や「真身(生身)性」をもつという意味での,仏像のひとつの究極的なありかただったといえる。そして当時それが重く受け止められたとすれば,日本においても仏像には何が重要か,仏像に何を求めるべきかということがそろそろ問われるべき時期がきていたからである。ここに至るまで百年近く,平安前期様式の緩慢な形式化ともいうべき変化の乏しい時期が続いていた。そしてこれ以後は急速に構造技法を含めた変革が起こることになる。その変化の本質は何か,ということはここで簡単に論じられる問題ではない。しかしともかくここに「由緒」や「真身性」が形姿の美しさと秤にかけられることにより,いわばその価値が相対化されたということは重要である。また河原院像の製作までを一連の出来事として捉えれば,そこに当時の日本人の自負心と劣等感のないまぜになった対外感情のあらわれをみることも可能であろう。寂照は入宋後景徳元年(-00四),金字法華経と水品数珠とともに「無量舟仏像」を真宗に進上している(『仏ネ且統紀』)。『元亨釈書』ではこの像を「本朝名刻也」と述べているが,それはやはり康尚の造った像だったかもしれない。知られている限り日本僧が中国に仏像を持って行った唯一の例であり,その持つ意味は大きい。そしてそれが無量寿仏すなわち阿弥陀像であったことを,永延二年(九八八)の源信の『往生要集』遣宋と重ね合わせることもできる。源信のこの行為は直前に帰朝した裔然を意識したものであったとも推測されている(注7)。ちなみに源信は正暦年中(九九0〜九九五)に横川霊山院を賢祐に勧めて建立し,寛弘四年(-00七)には康尚作の本尊等身釈迦像に対して結縁者が毎日交替で飯食・燈明供養や宿直に掃除,また寒温に応じて火濾や扇を用いるなど,あたかも生身の釈迦に接するように供養するための作法を規定している(注8)。奇然がかたちに託して像に付与した「真身性」を,源信はいってみれば像を取り扱う仕方によって身にまとわせたのだった。くだって治安二年(-0二ニ)の法成寺金堂供養呪願文(『法成寺金堂供養記』)では「仏像端厳。無比天下。祇園精舎。黄金譲光。優填尊容。栴檀暫色」と述べられ,『扶桑略記』万寿元年(-0二四)の同寺薬師堂供養の記事に収められる願文とみられる文章では「彼優陀延大王之摸腺像。緩刻七尺之栴檀。(中略)1青憶。弟子之所企。頗超印土之薫修者乎。仏則丈六尊像。皆螢数体於黄金」という表現がなされている。ついに優填王造像に対する当代の優位さえ謳い上げるに至っているこうした言葉の登-579-
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