鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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照)。「正確な素描」,「(ボイスのそれとは真っ向から対立する)知的分析に適した素描」〔図8〕,「境界をはっきりとさせる造形性を重んじるものであり,美の要求を受け入れようとするものであることがはっきりとしている」〔図9〕,「客観的事実に則し,かつまた細部に至るまで合理的に一つ一つ明瞭に造形言語化されている」。してボイスのスケッチブックの素描の特徴は次のようである。全体の印象では,「意識的にほのめかしの段階に表現をとどめようとしている」,「像の担い手が見当たらず,見栄えがしない」(線描によってある像が描かれていたとして,その根底にあるもの,あるいは像を何かを意味することによって支えるもの〔=像の担い手〕が存在しない),「(むしろ意図,意味をだいなしにしてしまうように)線はわざとまちがって引かれているように思われる」〔図10〕,「絵の仕上げ方が断片的である」(つまり全体的に仕上げられていない),「像を構成する線に強靭さが見られない」。細部の特徴としては,「きわめてうつろいやすい筆使い」,「鉛筆は紙の白地にしばしばただ軽く触れているにすぎず,そして角のとれた線描の影は,消滅して行こうとしている画面全体の傾向をくい止めるだけの力をほとんど持っていない」,「いくつかの線描表現のもとになる形が紙の地色の上には浮かび上がってきてはいるが,その姿たるや,はっきりとした輪郭を見せることをわざとためらっているように思える。他面では,奇妙なことにこれとは対照的に,より一層ごてごてとした構図も見られる。画面の中の重々しい暗部は,他を圧倒し,中心的存在として自己を主張している。このすべてが全く空間的な広がりを持たずに立ち現れている」〔図11,12〕。以上のようなレオナルドとボイスの素描の特徴の根本的な違いは,二人が生きる時代の違いから必然的に生じたものである。ボイスには,レオナルドにあった合理的なものと合理以前のもの,科学と神話的全体との統一的なあり方,芸術と科学との間の統一と豊かさに満ちたかつての状態が,もはやない。それゆえボイスはレオナルドのような細部に至るまで合理的に一つ一つ明瞭に言語化された表現を拒否しなければならず,あいまいなもの,非合理的なものを志向せざるを得ない。ボイスにおいては全体的なもの,つまり科学的には規定しえないものを,素描が描写し,規定するとしても,それはいわば直接話法的にはおこなわれない。それはいわば間接話法的,暗示的におこなわれるほかない。3)メディアとしての高い役割現在ではボイスのレオナルドに対する関心はすでに1950年の“Giocondologie”のプこれに対-587-

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