地が類似していることを指摘され,「元信の清涼寺縁起絵巻制作にあたり最も強く関心をひかれたのは,隆兼を中心とした中世やまと絵のアカデミックな様式の流れであり,とりわけ石山寺縁起などを介してその摂取に努めたと思われることである。換言すれば中世やまと絵の正系様式は,十六世紀には……元信によって積極的に漢画の世界に吸収されていったといえる。」とされた(注5)。しかし,これらのやまと絵と本絵巻の様式は果して類似しているのであろうか。「石山寺縁起絵巻」の山水と,本絵巻の山水は,群青,緑青,金泥という3種の色を使うことは同じである。しかし,例えば,「釈迦堂縁起絵巻」の第三巻第三段では,岩肌に多くの点苔が打たれ,また,岩を縁取る墨線もはっきり黒く肥痩を付けて引かれ,山の形もごつごつとしている。一方「石山寺縁起絵巻」の第五巻第一段では,岩肌に点苔はなく,墨線は淡墨の幅のある線となっており,山の形はなだらかであり,両者を見て受ける印象は異なるものとなっている。そこで興味深く思われたのが,百橋明穂氏の見解である。百橋氏は,本絵巻と関連する作品として,日本中世のやまと絵ではなく,中国明時代の作とされる鹿児島県歴史資料センター黎明館蔵「釈迦八相図」十三幅を挙げられた(注6)。氏は,「釈迦堂縁起絵巻」が,この明の「仏伝図のような原本を手本として」描かれたであろうことを指摘された。隆兼等との類似を指摘する従来の意見とは異なる百橋氏の意見は,私には新鮮に思われた。それは,従来の見解のように,元信の「濃彩」の「絵巻」に「和」を見るのではなく,たとえ濃彩であっても,それが「漢」を体現するものという意識があるのであれば面白いと思われたからである。そこで鹿児島への調査を実施した。鹿児島県歴史資料センター黎明館に所蔵される「仏伝図」十三幅(以下「十三幅本」と記す,〔図1〕)は,絹本著色で,法量は縦が132.2センチから132.8センチ,横が65.4センチから66.8センチである(注7)。本作品にはいくつかの資料が付属している(注幅を除く十二幅は,鹿児島の大乗院に蔵されていた。第九幅は,島津義久(1533■1611)か国分龍昌寺へ寄付し,寛保3年(1743)に大乗院へ寄せられたものであるという。ここで十三幅が大乗院に揃うことになる。延享元年(1744)には,木村探元が十三幅の「彩色闊所」を補った。また,大乗院の住持によって,何度かの修理も施された。具体的には,宝永5年(1708)に住持騰雲が,安永4年(1775)には三十二世の恵峯か,文化12年(1814)には三十九世の覚昌が,それぞれ修理を行った。そして明治138)。それらによれば,この作品の伝来等は以下のようであった。十三幅のうち,第九-595-
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