因果経など,第三•四巻が『優填王所造栴檀釈迦瑞像歴記』,第五巻が育然とともに中代の国王,即ち,南朝の宋の高祖,隋の文帝,唐の即天武后・玄宗・武宗,南唐の李翌,趙宋の太祉・太宗がそれぞれ瑞像を保護し信仰してきたことを語る。そして第五巻では,この瑞像が,育然によってH本にもたらされ,内裏に安置された後,清涼寺の本諄となった経緯が語られる。第六巻は詞書のみの一巻で,十九段分の詞書と「西天東震日域伝来年期略記」が記される。詞書では,瑞像を信仰し,念仏に励み,往生を遂げた話が多い。この第六巻は,詞書のみで絵はなく,料紙寸法も他の巻とは異なるとされている。それらがいかなる理由によるのか検討の必要があるものである。以上の話を語るこの絵巻のテキストは,「釈迦堂縁起絵巻」で初めて作られたものと思われる。というのも,本絵巻のテキストの出典は,巻によって異なっており,出典となった各テキストを加工し,つなぎ合わせて,本絵巻のテキストが出来上がっているからである。各巻の出典は,並木誠士氏の論考によれば(注10),第一・ニ巻が,絵国に赴いた盛算による『優壌王所造栴檀釈迦瑞像歴記』の「後書き」であるとされている。これらのテキストをつなぎ合わせることで,「釈迦堂縁起絵巻」では何を語りたかったのであろうか。絵巻各巻の内容を見てくると,「釈迦堂縁起絵巻Jでは,釈迦の誕生から涅槃に至るまでの生い立ちを語り,その生身の釈迦を写した瑞像がインド,西域,中国,日本へと渡ってきたこと,即ち,釈迦を写して瑞像が作られ,それが日本までやって来たという一筋の流れを強調していることがわかる。しかも,インドから日本に至るまでのそれぞれの場で瑞像を守ってきたのは,国王や皇帝である,ということも強調されていると言えるのではなかろうか。ではなぜ,生身釈迦の瑞像が,インドから日本にまで伝えられた由来や,各国の国王等に守られたことを語りたいのであろうか。この答えは容易には出ないが,これについて知るためには,この絵巻が作られた当時の,清涼寺の様子,及び,清涼寺釈迦像を取り巻く状況を探る必要があろう。だが,清涼寺の中世の歴史について,残されている資料はほとんど無い。しかし,それを知るひとつの手掛かりとして,「融通念仏縁起絵巻」を挙げることができるのではなかろうか。「融通念仏縁起絵巻」は,十四〜十五世紀に広く普及した絵巻で,この絵巻の一部に清涼寺釈迦像が登場するのである。「融通念仏縁起絵巻」の原本は正和3年(1314)に成立したとされ,この絵巻の普及-598-
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