には,良鎮(1382■1423)が多大な努力を払った。良鎮は,自他の念仏が融通して功徳が広大となることを目指す融通念仏宗の教義に則り,多くの人々に念仏を広めるべく,「日本国,ゑぞが島,いわうが島までも……一国一本二本或は多本,此絵をつかはして,家をのこさず,人をもらさず勧進申さむとなり」(知恩院蔵本の奥書)との志をもって,この絵巻の普及に努めた。更に,良鎮は木版による「融通念仏縁起絵巻」制作を企て,絵巻の一段ないし数段単位に多くの結縁者を募った。「明徳版本」と呼ばれるこの木版による絵巻の最終段に,清涼寺融通大念仏の段は,新たに付け加えられたのである。その明徳版本に則って,1414■1417年ころには,消涼寺蔵「融通念仏縁起絵巻」が,更に,1460■1462年頃には,禅林寺蔵「融通念仏縁起絵巻」が制作された。また他にも「文安本」等が作られた。では,これらの「融通念仏縁起絵巻」では,この清涼寺融通大念仏の段は,どのように表されているのであろうか。清涼寺蔵本で,その詞書を見てみると,「清涼寺の本尊は釈尊在世の時,干寮王の発願にて,毘首翔磨天都率天より化米して,赤栴檀をきざむで尊容を摸したてまつる。生身の釈迦如来にてまします。彼霊場にて出世本懐の念仏を勧進すべきよし,上宮太子の示し給へる融通大念仏なれば,一度も参詣結縁の道俗の中に先立て往生の素懐をとぐる人あらば……」(傍線は筆者による)と記され,釈迦像も念仏に資するものとして語られている。また,この段の絵では,清涼寺の釈迦堂で道俗の老若男女が入り交じって念仏を唱えている〔図6〕。釈迦像の前には,覆面をした非人も多く,釈迦像が崇め奉られているようには描かれていない。そしてその釈迦像も〔図7〕,清涼寺蔵本で見ると,実際の釈迦像とは異なり,胸前の衣ははだけており,光背にも頭光は表されず身光にあるべき左右五曲の波形も示されていないのである(注11)。これらの表現は,「釈迦堂縁起絵巻」とは対照的である。「釈迦堂縁起絵巻」では,釈迦像そのものの由緒が延々と語られ,絵巻の釈迦像〔図8〕は,衣紋も光背も実際の像(図9〕により近い形で表されている。また,第五巻第四段の釈迦堂の表現(注12)は,その構図などから,「融通念仏縁起絵巻」の最終段の絵を明らかに跨まえて構成されていると思われるが,「釈迦堂縁起絵巻」では,像の前に貴族や高僧が並び,その後ろに身分の低い者たちを配すという秩序立ったものとなっている。「釈迦堂縁起絵巻」は「融通念仏縁起絵巻」を意識しつつ,それとは異なるものを清涼寺釈迦像に表-599-
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