鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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る視覚性が,伝統的にジャン・クレールのような研究者たちによって,知性,図式的統御,観念のレベルでとらえられる一因となってきたようである(注8)。確かに,クレールが指摘するように,「四次元」という完全に観念的な空間を追及したデュシャンの芸術は,遠近法という「純粋に観念的な」体系を軸に,西洋美術の伝統のなかに位置づけられているといえよう。しかし一方で,「もの」としての身体や性と結びついたデュシャンの視覚性という見方が根強く存在している。そのような見方は,たとえば,「ペニスがヴァギナによってとらえられるようなやり方で,事物を精神でとらえたい」というデュシャン自身の有名な言葉によって示されている。そして近年の,ジャン・フランソワ・リオタール,ロザリンド・クラウス,ダリア・ジュドビッツらによる研究は,この物質的な身体や性と結びついた視覚,そして観念としての視覚という二つの旧来の視点を,それぞれ「移行」可能な,両極的な視点として考えることに関わっているように思われる。このようなデュシャン研究の変化は,1969年に,デュシャンの遺作である《(1)落ちる水(2) 照明用ガスが与えられたとせよ》〔図1,図2〕が,デュシャンの生前の指示に従い,フィラデルフィア美術館に設置,展示されたという出来事に関連している。このとき,批評家や研究者は,レディメイドによって方向づけられていたデュシャンの反芸術としての立場を見直す必要に迫られた。《遺作》は,様々な物体の集積からなる作品であったが,扉の向こう側には絵画的表現が広がっていたからである。それは,一見,デュシャンの美学主義への回帰を意味していた。《遺作》を見たジェセフ・マシェックは,1975年に,デュシャンの反芸術的傾向という従来の見方に対する疑念を書き記している(注9)。そして,このような戸惑いやジレンマは,当然のことながら,《遺作》自体の諸要素に対する解釈の両義性として現れた。《遺作》では,古びた木製の扉が,レンガの枠によって美術館の壁に固定されている。そして扉の向こう側には,木の枝が敷きつめられ,その上には裸体の女性の人形が横たえられている。その奥には,滝の流れる森林の写真が置かれている。そこでは,景色全体の遠近感が,平面上の表象によってではなく,イメージや物体の集積によって,きわめて人工的に,作為的に生みだされているのである。しかし,この異様な光景を目にするためには,観者は,不動の扉に開けられた二つののぞき穴から,扉の向こう側をのぞきこまなければならない。この《遺作》が展示された当初,オクタビオ・パスは,《遺作》の扉について,「見-608-

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