鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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物人の行手にその扉たる実体を示す。行き止まり」と言い表した(注10)。つまり,パスは《遺作》の扉を,物質的な障害物,背後に広がる光景の単なる口実とみなしたのである。またジョン・ゴールディングも,観者は,「最後のタブロー」に出会う前に「磁石にひかれるかのように」その扉のほうへ引っぱられると述べ,扉の向こうに広がる異様な光景の記述に重点を置いた(注11)。つまり《遺作》の扉は,その向こうに広がる人工的な,虚構の空間と対置されるべき「現実の扉」なのである。これらの《遺作》の解釈は,《遺作》の扉が,デュシャンの言う「蝶番」としての扉ではないことを示している。この「蝶番」の考えは,デュシャンが1927年にパリで大工に指示して作らせた《ラリー街11番地のドア》的に示されているが,パスは《遺作》の扉を,「蝶番とその逆説の正反対」と言っている。しかし,これらのパスやゴールディングの見方に欠けているのは,批評家や研究者以外の一般の観客たちの視点であると思われる。なぜなら,「デュシャンの《遺作》を見ること」を目的に訪れる批評家や研究者と異なり,一般の観客がこの作品に出会うのは,多くの場合,単なる「偶然から」だからである。実際,《遺作》はデュシャンの作品を集めたアレンズバーグ・コレクションの展示室に展示されているのであるが,それは,その展示室の奥に小さく仕切られた,さらに別の暗い一室に設置されている。時として観客は,その仕切りの向こうに「作品」が存在することには気づかず,通り過ぎてしまうほどである。一般の観客がその「作品」の存在に気づくとすれば,多くの場合それは,《遺作》の扉の穴をのぞいている他の一人の観客の存在によってなのである。また,逆に扉をのぞいているそのたった一人の観客も,穴をのぞくために背後に並んだ他の観客たちの存在を認識しないわけにはいかない。この場合,単純に「美術館に展示された作品を見る」ことを自明の前提とした批評家や研究者の見方とは,明らかに異なる見方が存在している。このように,《遺作》の扉は,その前に立つ観者の差異化をおこない,単純に「美術館に展示された作品を見る」という自明の前提をあらわなものにしている。言い換えるならば,そのような前提を制度化するものとしての美術館,つまり美術館という観念をあらわにしているのである。この《遺作》の扉は,単なる物質的な障害ではなく,「芸術作品」としてのリアリティーと美術館という観念の「蝶番」として機能しているといえよう。常に開いていると同時に閉まっているドアに端-609-

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