視覚と身体をめぐって問題は,ジュドビッツが指摘するように,「目に見えるものが,美術館の論理にしたがって構成されている『既成のもの(ready-made)」であるという点だけでなく,見る行為が,イメージとその広範にわたる言及の枠を結びつける諸形式の構成を含んでいるという点」(注12)であろう。デュシャン自身の言う「外観の諸形式」は,この「見る行為」と「諸形式の構成」を結びつける適切な用語として理解することができる。《遺作》が開示しているのは,イメージとそれの指示する「意味」か固定化して結びつけられたものではなく,「見る行為」自体がその結びつきを内在させているということである。それゆえ,必要となるのは,伝統的な美術史家がおこなってきたように,イメージとセクシュアリティーのあいだの指示的な関係を自明のものとして論じることでもなく,フェミニズムの批評家のように,視覚の問題を「(男性の)まなざし」のイデオロギーヘと還元してしまうことでもない。むしろデュシャンの《遺作》は,そのような還元化れる還元化ーーに挑戦しているのである。みだされていった。18世紀にカントは,『判断力批判』のなかで,「美的体験」を享受する主体として純粋に知的な主体を設定したが,クラウスは,美術館が,そのような「個々の主体」の「集産化に基づいた視覚性の共有空間」として成立したと分析している。そして《遺作》では,この「純粋に知的な主体」が,他の観者に背後から見られることによって,欲望の主体として定義し直され,性欲に満ちた身体として再刻印されることになる,と述べている(注13)。またクラウスは,他の観者に背後から見られる《遺作》の「のぞき魔」を,サルトルの『存在と無』に登場する「のぞき魔」うをのぞく試みを断念してしまうはや「見る」身体ではなく,他者との関係においてのみ定義されうるような,単なる「客体」としての身体と化す。それは,「知る」ことはできず,「存在する」ことだけができる自己である。そして,他者のまなぎしによってとらえられた,性欲に満ちた身体である。サルトルにおいては,「恥」の意識こそが,そのような自己および身体を作りだす。しかし《遺作》の場合,観者は,他者のまなぎしによってとらえられると同時に,何者にも妨げられずに,扉の向こう側を凝視し続け,欲望を満たすことがで19世紀から20世紀にかけての欧米における文化的発展のなかで,巨大な美術館が生客体化されない生と性視覚を支配する自明の前提を客体化してしまうことによってなさ背後の足音に気づき,扉の鍵穴の向ことの類推によって論じている。両者は共に,も-610-
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