鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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体系の前提となっている条件を物質化し,あらわなものとしている。その条件とは,視点と消失点の理論的な一致であり,それは,イメージが網膜の上に鏡のように映し出されること,イメージと空間が一致していることを暗黙の前提としている。《遺作》の扉と裸体の人形の間に立てられたレンガの壁が,遠近法の視覚のピラミッドと交わる垂直面を物質化しているとすれば,扉の穴はそのピラミッドの頂点である視点をステレオスコープのように物質化したものとみなすことができる。さらに《遺作》においては,視点と見る「主体」の一致という,遠近法の論理のなかで表象されてきたものが完全に解体されている。それは,レンガの壁の向こうに広がる光景の過剰な現実性(hyperreality)に主に起因している。革を貼り,カツラを被せた裸体の人形,実際の小枝,森林のカラー写真。そして滝の流れが,丁寧にも電気の点灯で作りだされている。また《遺作》と並行して1959年に制作された《死拷問の静物》と《死静物の彫刻》は,足の裏を型どった石背,野菜を模した砂糖菓子,昆虫などが集積された作品である。これらの過剰なまでのリアリズムは,「現実」への誤った懸橋となり,性や生の現実と視覚のあいだの一致を脅かすものとなっている。この《遺作》の光景はさらに「照明用ガス(illuminatinggas)」によって過剰なまでに明る<照らしだされているが,この照明はまさしく観者の「まなぎし」をも明る<照らしだしている(illuminatinggaze)。「照明用ガス」を掲げた右手,そして隠された顔は,横たわった女性の生と死の両義性を暗示している。果たして「照明用ガス」の光のもとで「まなざし」を向けているのは,観者と横たわった裸体の女性のどちらなのであろうか。ス燈を手にした裸体の女性が描かれているが,ここでも,女性の顔を見る観者の視線は,手前に描かれた男性の肘によってさえぎられている。そして観者のまなざしは,女性の顔をみつめるその男性のイメージによって,絵のなかで内面化され,照らしだされているのである。このように,デュシャンの《遺作》や《アウアー燈》では,男性のまなぎしが性を「客体化」できないことによって,慣習的な観者の視線が「照らし」だされている。デュシャンの後期のこれらの作品は,フェミニズムや映画研究がおこなった還元化,つまり窃視(voyeurism)による女性の身体の「客体化」という前提には,必ずしもくみしていないのである。1968年に制作されたエッチング作品《アウアー燈》では,《遺作》の女性に似た,ガ-612-

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