鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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(4) 自然と芸術—対句と対話ポープ自身が示している。彼は父ティモンの「浪費」が,知らぬ間に公共の善に貢献していることを指摘する。「けれども〔ティモンの浪費によって〕貧者は着物を得,空腹は満たされる。……彼の堅い心が拒むものを,彼の慈悲深い虚栄心が補う訳だ」(169-72)。しかもポープ自身がこの行に付けた註によれば,むしろティモンの方が,その息子,更にはバサーストやバーリントンよりも,社会全体の利益に寄与するという逆説が生じる。「このような濫費者に富を与えている神の摂理は正当化される。悪い趣味の方が,良い趣味よりも多くの人手を雇い,多くの出費を広める」(169n.)。更にポープは,同じ註で『バサースト卿への書簡詩』(1732)を参照するように言う(『バサースト』は『バーリントン』と密接に関係する形で同時期に書かれた)。その『バサースト』にはもう一組の世襲貴族の父子,極端な吝薔家コッタとその息子が現れるのだが,父の利己主義を正すべく,息子は反対の極端に走る。すなわち彼は,公共の善を尊重する余り,結局自滅するのである(203-18)。そうであるならば理想の庭とはいかなるものか。ティモンの息子の理想郷では,富の浪費はなく,富は公共の善に吸収される。しかし一方で,父ティモンのように私的利害から富を浪費する方が,寧ろ公共の善に役立つ。他方コッタの息子のように公共の善に全てを捧げることは,却って不毛である。かくして『バーリントン』における理想の庭は,一種の決定不能に陥ってしまう。恐らくポープは意識的に両義的な形で語っており,その上で亀裂を牢む危うい調和の実現を提唱しているのである。例えば『バサースト』において次のように語られる。「教えて欲しい。幸運に授かった財産と正しい出費を釣り合わせ,倹約と偉大,壮麗と慈善,豊穣と健康を結び合わせる,そのための感覚を。……狂った善良さと,けちな自已愛という極端の間で動く,あの稀有な秘密を」(219-28)。同じことは,有用性の次元のみならず,自然と芸術の関係についても見られる。この関係について述べた一節は,庭園を自然へと開くという風景式庭園の原理を端的に表明したものとして極めて重要かつ有名である。以下,該当部分全体を引用したい(便宜上各段落に番号を付す)。第一段落:汝〔バーリントン〕はしばしば,対等の者に一つの真理を示唆した。-619-

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