第二•第三段落で顕著となるのは,対句表現の多用であろう。これは下表のようにしかし多くの人は,大金を積んでもそれを贖えない。出費以上に必要な何か,趣味にさえ先立つ何かが存在する。感覚がそれである。良い感覚〔良識〕のことであり,天のみがこれを授ける。それは知識ではないが,ゆうに自由七学芸全てに価する。汝自らのうちに感じなくてはならない光。ジョーンズやル・ノートルですら,それを与えはしない。(39-46)第二段落:建てる時,植える時,何を意図する場合でも,柱を立て,アーチをかけ,テラスを築き,グロットを掘る時,全てにおいて,自然が決して忘れられないようにせよ。けれどもこの女神〔自然〕を,慎ましい麗人として扱わねばならない。着飾り過ぎてもいけないが,肌が露でもいけない。美をすべからく,至る所で曝してはならない。技の半分は,品良く隠すことにあるのだから。快く混乱させ,驚かせ,変化させ,境界を隠す。そうした者こそ成功を収める。(47-56)第三段落:全てにおいて,土地の精霊の伺いを立てよ。この精霊こそ,水に上行・下行を命じるのだから。それは大望を抱く丘を助け天空を測らせ,谷を穿ち幾つもの丸い劇場にする。田園を呼び入れ,空き地を捉え,喜び従う木々を結合し,木陰と木陰を変化させる。伸びゆく線を,時に分断し,時に導く。この精霊は,汝が植えるがままに描き,造るがままに意図する。(57-64)第四段落:それでもなお感覚に従うこと。それはあらゆる芸術の魂。そうすれば部分は部分と呼応し,一つの全体へと知らぬ間に変わりゆこう。自発的な美が四方に歩み出,困難からも生じ,偶然によって感銘を与えよう。自然は汝に加わり,時がそれを驚嘆すべき一つの作品へと成長させよう。(65-70) この四つの段落は,極めて巧みに構成されている。先ず第一段落で,芸術を不当に「買う」ことへの批判という主題が反復・深化される。そこで表明されるのは,一種の美的エリート主義である。すなわち,知識や教育を越えた生得的・先天的「感覚」こそが「趣味」や「出費」を統御する最終原理,「あらゆる芸術の魂」(第四段落)であり(これは既述のように有用性の次元においても当てはまる),それを持たない「多くの人」は芸術に投資しても結局「浪費」にしかならないのである。纏められる。恐らくはストウのような。-620-
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