鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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―-623-(5) 「自発的な美が四方に歩み出」いものであり,芸術の側に属するものと言える。他方,第ニ・三段落の「自然」と「土地の精霊」とは,造園家が「着飾り」「隠し」「伺いを立てる」もの,つまり造園家の外部にあって芸術の対象となるもの,造園における所与,広義の自然と呼び得る。更に後者の内の二契機,狭義の「自然」と「土地の精霊」とは,互いに対比的なものと捉えられている。このことは既に,両者に関して同様に「全てについて」(Inall) の句が用いられ,しかも対称をなすよう行頭と行末に分けて配置されていることからも窺えよう(50,57)。そればかりではない。狭義の「自然」は,女性として表象され,一貫して目的語の位置に置かれている。それは単に「忘れられないように」すべきもの,その意味では消極的な存在に過ぎず,半ば露に,半ば隠される受動的な客体でしかない。それは丁重に「扱わねばならない」麗人に過ぎず,その美的効果を発現させる主導権は,男性たる造園家によって握られている。「快く混乱させ,驚かせ,変化させ,境界を隠す」最終的主体=主語は,彼女ではなく,「そうした者〔He:男〕」なのである。他方,「土地の精霊(Genius)」は男性名詞であり,一貫して主語の位置に立たされ,「命ずる」「掘る」「捉える」「意図する」といった一連の能動的行為の主体となっている。造園家はそれに「伺いを立て」ねばならない。つまりこの精霊は,造園家と対等の地位にある助言者ないし共同製作者なのである。だからこそそれは,「汝が植えるがままに描き,造るがままに意図する」とも言われる。かくして造園家は,自らの内なる「感覚」を頼りに,広義の自然と様々な対話を交わす。時に彼は,女性に対するかのごとくそれに能動的に働き掛け,その美を引き出す。時に彼は,それと手を携えて共に制作する。こうした芸術と自然の対話こそ,この一節全体における根本モチーフであり,それが様々な対句的表現を総括している。強調せねばならないのは,この芸術と自然との対話が,常に亀裂の可能性を卒むことである。例えばポープが,「自然が決して忘れられないようにせよ」と力説するのは,この麗人が容易に忘却されるからに他ならない。しかもたとえ忘却しなかったとしても,逆に造園家はそれを着飾り過ぎ,その肌を剥き出しにして,再び倒錯したティモンのヴィラの反自然に陥る傾きを持つ。また造園家が,「自然」や「土地の精霊」に注意を払い過ぎる結果,自らの内なる「感覚」を忘却する危険もある。だからこそポープは,第ニ・三段落で広義の自然への顧慮を強調した直後,第四段落冒頭で,「それで神秘化の美学

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