結もなお(Still),感覚に従うこと」と忠告しなければならなかったのである。しかしこうした亀裂の可能性を卒みながらも,これらの様々な対立は全て,造園家の「感覚」を侯って一つの協和へもたらされる。それを述べたのが第四段落である。ー「感覚」に従うことで,庭園における対立的諸「部分」は「全体」に融合し,「困難」は「自発的な美」と化し,「偶然」は「時」のもたらす「成長」となり,「自然」は「汝」つまり造園家と調和する。ここで特徴的なのは,この調和の神秘的・魔術的とも言うべき性格であろう。なるほど第ニ・三段落においてポープは,数々の対立的要素を導入し,自然と造園家の間のニュアンスと亀裂に満ちた対話を説いていた。しかしこれらの対立は,第四段落に入り一挙に解消し,自動的に調和へともたらされてしまう。もはやここにおいて,造園家の主体的努力は殆ど意味がない。彼に必要なのは,ただ自らの「感覚」に従うことだけである。それに従うだけで,全ては調和へと「知らぬ間に変わり行き」(slides),美が「自発的」に「歩み出」て,「自然」と「時」の流れが「困難」や「偶然」をひとりでに解消してくれる。こうした「感覚」による魔術的な調和の達成は,翻って有用性の次元にも看取できた。先に見た通り,ティモンのヴィラは息子の代に理想郷へ変貌する。しかしその変化は,殆ど時のもたらす自動的効果として語られる。「次の時代になれば,黄金色の穂が斜面を彩り……ティモンの虚栄心が計画したものは,全て丈高く伸びた実りの下に埋もれてしまう。そして微笑む豊穣の女神が,領土を回復するだろう」(173-76:先に引用)。あたかも,ティモンの死後ヴィラを放置した結果,植物が繁茂し,豊穣の女神が機械仕掛けの神さながら,人知を越えた力で全てを調和したかのようである。なるほどこれは,ティモンの息子が,本来的に「浪費」への傾を持つ「出費」を「使用」に吸収させるべく努力したからかも知れない。しかしそれを可能にしているのは,結局彼の生得的「感覚」に他ならず,この「感覚」は最終的には説明も教育も不可能である。『バーリントン』は,しばしば考えられてきたほど単純な庭園論ではない。先ずそれは政治経済的批判である。更にその上で主張される調和も,多くの不調和を卒む複雑な調和であった。とは言えポープは,最終的にこれらの不調和を排他的・神秘的「感-624-
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