覚」によって一挙に解消する。我々はこのことをいかに解釈すべきか。今少なくとも言えるのは,可能な解釈の幅を性急に縮減すべきではないということであろう。例えば,全てをこうした「感覚」に委ねることは一種の「遂行矛盾」と解釈できる。すなわち,この生得の「感覚」は誰にも教えることができない以上,それについて教訓詩を書くことは究極的には無意味である。にも拘わらず書くとすれば,そこに文化的エリートの自己餡晦といった政治的意味を読み取ることもできよう。或はそこに,同時代の経済に対するポープのアンビヴァレンツを見てもよい。すなわち,正当な出費と非道徳的浪費の差異の曖昧さを,差別主義的「感覚」によって解消することは,己が否応なく巻き込まれながら(ポープが文学の商品化に果たした先駆的役割はよく知られている),道徳的には是認できない資本主義経済(商品社会)に対する彼のアンビヴァレンツを,権威主義的に抑圧する手段だったと言うこともできる(尚,浪費が杜会全体の善に繋がるとする発想は,マンデヴィル的言説の侵食であろう)。更にこれは,より原理的な問題の現れとも解釈できる。例えば美と有用性,美徳と悪徳等の差異は,最終的には決定不能であり,実践のレヴェルで人は或る究極的に不可知の「感覚」によってその都度判断しているに過ぎない。自然と人工の関係についても然りである。人間が認識するものである限り,人工性に侵食されない自然は,現実には存在しない。しかし逆に,人工性を排除した自然を措定しない限り,この侵食の事実を主張することはできない。従って例えば,ティモンのヴィラと息子の理想郷のいずれが自然と芸術の調和を実現しているかを原理的に決定することは,このジレンマの外にある権威によらない限り,最終的には不可能である。もとよりこのように様々な亀裂や決定不能性を牢むことは,『バーリントン』の欠点ではなく,その豊穣さを示している。我々はそれを一つの方向(サンス)に解消することなく,それを解きほぐし,更に視野を他の文脈・言説へと拡張せねばならない。参考文献抄:Brown, Laura. Alexander Pope. Oxford: Basil Blackwell, 1985. Copley, Stephen. Literature and the Social Order in Eighteenth-Century England. London: Croom Helm, 1984. Mack, Maynard. The Garden and the City: Retirement and Politics in the -625-
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