鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
639/747

(3) アメリカのモダニズム美術を育成する活動。初めて紹介する。写真家としてのスティーグリッツは,1902年までには国際的に知られる存在だった。ベルリンエ科大学で写真化学を学び,実際に写真の撮影を試みながら写真雑誌に記事を執筆したり,ロンドンなどの写真協会で数々の賞を獲得している。また1896年には,新たに設立されたカメラ・クラブ・オブ・ニューヨークの副会長に就任し,その機関誌である『カメラ・ノート』の創刊と編集に携わる。ここでスティーグリッツが目指したものは,第一に当時ヨーロッパで起きていた写真のピクトリアリズム(絵画的写真)の同時的な推進であり,第二にそうした考え方にもとづいてアメリカにおける写真芸術の質的な向上と国際的な水準を確立することであった。彼はそのために,『カメラ・ノート』で先進的なヨーロッパ写真家やアメリカ国内の無名な若い世代の作品を積極的に取り上げ,1902年には自ら組織した展覧会「アメリカ絵画的写真」をナショナル・アーツ・クラブで開催する。こうして彼は,1900年カメラ・クラブの副会長を辞した後,02年には「フォト・セセッション」を声明し,翌03年には機関誌『カメラ・ワーク』を創刊させて,アメリカ写真界の保守主義を排除した急進的な活動を本格的に開始する。05年に開設した「リトル・ギャラリー・オブ・フォト・セセッション(後に291ギャラリーと改称)」は,アメリカにおける新しい写真芸術を獲得するという彼の野望を実現するための前線基地であった。当然のことながら,291での展示活動と『カメラ・ワーク』の編集は,カメラ・クラブと『カメラ・ノート』時代の考え方を継承するものであった。つまり,アメリカ写真が自国の新しい世代によって築かれるべきであること,その成長を強固なものとするために外国の先進的な写真家を紹介し啓発されるべきとする戦略である。アメリカでは新進の写真家ガートルード・ケーゼビア,クレランス・ホワイト,そしてフォト・セセッション結成の同志であるエドワード・スタイケンをいち早く取り上げ,ヨーロッパからイギリス,フランス,ドイツ,オーストリアの写真家に出品を要請したのである。こうして『カメラ・ワーク』は創刊の03年から07年まで,291の展覧会は05年から07年までが写真のみを取り上げている。しかし,スティーグリッツの野望はそう単純なものではなかった。07年以降彼は,291で同時代の絵画,素描,彫刻など写真以外の造形芸術を展示し,『カメラ・ワーク」においても現代美術や芸術評論などの論文を-628-

元のページ  ../index.html#639

このブックを見る