(2) 古川古松軒の地理思想と定信文庫蔵)所収)に,「韮山井下田古城跡ハ追テ紙形力木形二仕立差出サルヘク候(後略)」と,定信が「紙形」「木形」なるものの作成・提出を命じるくだりがある(注6)。同氏は別の土地についても「紙形張ヌキ」の作成を命じられ,後日「土形」を提出している(注7)。「紙形」「木形」あるいは「紙形張ヌキ」「土形」とは,江戸時代に作られた立体模型である。「土形」は現代のレリーフ・マップに相当し,粘土を用いて板面に地形の形態を作り上げるもので,実際は粘土の上に小片の切り紙を幾重にも張りつけ,乾いた後で中の粘土を抜き取る張りぼてによる仕立てが多かったという。「紙形」「紙形張ヌキ」はこの製法の模型を指すのであろう。一方「木形」とは木彫りによる立体図である(注8)。定信が地形を三次元に再現しようと試みていたことは大変興味深い。彼のこうした地形把握への情熱が「公余探勝閲」を描かせたことは今や明らかであろう。それでは何が彼をそのように駆り立てたのであろうか。「此山高さ如何程峠上り何程(中略)杯申類委敷向背峨易悉ク相認メ(後略)」定信か巡見中に地図製作を指示する書簡において,地形の精密な調査を命じた言葉である(注9)。ここから想起されるのが,備中出身の地理学者で定信のブレーンの一人,古川古松軒(享保11〜文化4)の地理思想である。古松軒が寛政元年定信に献上した書『西遊雑記』は,中国及び九州地方の旅行記である。彼は江戸時代初期に編まれた城絵図集『主図合結記』を旅に携え,実際の景観と収録図との比較検討を通じて,同書を始めとする兵書の城郭図・城下図が,一般に城地の縄張りを主とし,周辺の地形環境への配慮を欠いていることに批判の目を向ける(注10)。すなわち「其の城地の四方三里五里の間の地理を知りて,東の方にはかくのごときの切所有り,西の方何里には峻岨の坂有り,南には川有り,直道有り,北は曲道間道,海手のかたは海の浅深(中略)ということを記しおきなは,まさかの時には少しは益ともなるべき(後略)(巻之三)」と,敵の攻撃をいかに防ぎ得る土地であるかという<地理的軍学〉(注11)の視点から景観を捉えているのである。この言葉の署きは定信書簡中のそれと共通のトーンを有している。敵(外国人)が上陸し江戸に攻め上るのをいかに阻止するか,巡見中常に定信の頭を占めていた問題はまさにそれであった。古松軒が西遊の折りに城郭に向けたのと同じ眼差しを,定信-53 -
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