掲載し始めるのである。特に291での展覧会は,08年の58点に及ぶロダン素描展を皮切りに,08年マティス展(素描,水彩,リトグラフ,油彩),09年浮世絵版画展,10年ロートレック展,マティス素描展,セザンヌ水彩画展,11年ピカソのキュビスム素描展,12年マティス素描彫刻展と続く。こうした活動により,291は造形芸術全般にまたがる前衛運動の拠点としての様相を示し始めた。では,何故にスティーグリッツは写真以外の分野にまで活動の範囲を広げたのだろうか。フォト・セセッションを結成したスティーグリッツは,当初ギャラリーまで開設する考えはなかった。しかし,元々画家の経歴をもつスタイケンの強い進言と扇動により,291を必ずしも国内外の絵画的写真だけを紹介するのではなく,近代美術も同様に扱う場とすることが二人の間で合意されていた。造形芸術を含めるとする考え方は,同じ画廊内で写真と美術作品を共に展示することによって,あらゆる視覚芸術の垣根をとりはらえると二人が信じたからである,と研究者から指摘されている。また,画家よりも写真家の教育,育成に関心を持っていたスティーグリッツとしては,写真が美術作品という別の表現媒体と並んで評価されることの意義を充分に認識したのであった。実際問題として,ヨーロッパの前衛作家を紹介する下準備や手配などはスタイケン抜きには不可能であり,スティーグリッツ自身当時のマティスやセザンヌ,ピカソの革新性をどこまで理解していたかは不明である。しかし,写真を含めた視覚芸術の全般のアメリカにおける後進性,因習や伝統に寄りかかった保守的な思考と戦い,あらゆる表現の自由を確立することを目指したスティーグリッツは,同志の賢明なるアイディアを受け入れ,許容する情熱と高い見識を有していたと見るべきであろう。こうして,新しい写真の可能性を追求するスティーグリッツの活動は,アメリカにおける前衛美術,あるいはモダン・アートの創造へとその輪を更に拡大して行くのであった。ところで,291や『カメラ・ワーク』を通じて,スティーグリッツはどのような芸術観と美意識を自覚していたのであろうか。彼自身は様々な会話や言動の中で,20世紀モダニズムに固有な個人の思想と自己実現を芸術家たちに求めたといわれる。『カメラ・ノート』以来の常連であった,評論家のチャールズ・カフィン,サダキチ・ハルトマンらも,彼と同様に芸術における変革や想像力,そして主観の問題を取り上げている。しかし,291に関係する人々の間では,造形と理論の体系的な知識にもとづく主義や主張を唱える者はいなかった。スティーグリッツ自身,芸術の特質や内容に関する特定-629-
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