メリカ固有の表現を与えようと企てた彼の画廊に集まる生えぬきのアメリカ人に対してだった」からである。そして,スティーグリッツはその夢と可能性を切り開くに足る資質を,マリン,ハートリー,ダヴ,そして最後に加わる女流画家オキーフたちに見い出した。スティーグリッツの意中を得た画家マリン,ダヴ,ハートリー,オキーフらは,各々が独立自尊の立場を崩すことなく,互いの資質を讃えながら唯一無二の世界を探求していった。これはアメリカ美術の伝統としても特徴的な傾向である。19世紀後半に活躍した写実絵画の巨匠ウィンズロー・ホーマー,トーマス・エイキンズの例を出すまでもなく,アメリカでは複数の美術家が共通の造形理念を打ち立てて,特定な表現の時代様式を生み出すことがない。先ず各個人の感情と表現技法の探求から出発して,最終的に強力な個性を確立するのである。スティーグリッツ自身,マリンやオキーフらに対して,絵画の主題や表現など関する具体的な指導は何もしていない。それは彼ら自身が見い出して,探求してゆく本質的な事柄だったからである。ただし,作風も気質も異なる彼らには,共通する視線があった。それは自然に対する視線である。アメリカには,ハドソン・リヴァー派という19世紀以来の風景画の伝統がある。しかし彼らは,広大な自然の外観を写実的に捉え,その自然の奥に潜んだ神秘的なものに迫るハドソン・リヴァー派と異なる。彼らの視線は,自然を外側から眺めるのではなく,自然の中に入り,自然に脈打つ律動や自然が放つエネルギーを受け止め,それを自己の内的なヴィジョンに高めるため,抽象化の作業へと向かうのである。この作業は,きわめて直感的でかつ官能に満ちた,実験的な行為と考えられる。勿論,マリン,ダヴ,ハートリー,オキーフの抽象化の仕方は各々全く異なる。例えばマリンは,自然の律動に身をゆだね,絶えざる流動と運動を画面に定着させた。ダヴは,内的なエネルギーを放つ自然を抽象形態として捉える。ハートリーは,表現主義的立場から自然を象徴的に描く。そしてオキーフは,自然の持つ官能性,生命力,そしてその感情を象徴的に表現するのである。特にマリンやオキーフにとって自然は,相対すべき都市の姿をも等価な対象として組み入れている。やがてスティーグリッツの写真にも,同様の美学が生まれるのである。こうしてスティーグリッツとそのサークルは,自らの感性を解放させながら,かつて在ったものからではなく,自分以外に何もない所から新しい創造の精神をアメリカにもたらしたといえるだろう。-632-
元のページ ../index.html#643