は将来戦場と化すかもしれぬ地に注いでいたのである。こうした知識を得て「公余探勝図」を眺めると,閑かな村落風景の内に軍略上のポイントが見えてくる。例えば「馬入川」〔図9〕は高麗山から川を渡る敵を攻撃可能なこと,「柿木村南望」〔図10〕は眺望がきき近くに狩野川の流れる要害の地,城山(画面奥)の立地条件を各々示すと解読できまいか。もし本作品が名所図会のような俯眼図に拠っていたら,攻め来る敵の視点に立った説得力のある景観の再現は難しかったであろう。既にこの地方の精密な地図は完成しており(注12),「そこに何があるか」の説明を極度に兼ねる必要はなかった。古松軒の地理思想の影響を受けた定信は「敵の目から見た」風景の再現を切実に求め,その発想が新しい切り口の風景表現を生んだように思われる。「公余探勝図」成立以後刊行の名所図会には,興味深いことに以前と異なる特質が見られるようになる。寛政八年刊『和泉名所図会』には奥行感のある空間への配慮かとみに見受けられる。画面奥の家々の屋根は,手前のそれに比べて明らかに小さく,遠くに見えるよう描かれている〔図11〕。一方『都名所図会』における屋根の描写は,画面手前と奥で殆ど変わらないのである〔図12〕。ほぼ正確な楕円形を作る道によって,空間の広がりを示す図も出てくる〔図13〕。最大の変化は,「臥遊」の視点よりもある景物への視点の集中を狙った図の登場である。例えば山中の寺院の景において,観る者の視点は自然に前後の山に挟まれた中央の建物に誘われる〔図14〕。同じような景でも『大和名所図会』のそれ〔図15〕が拡散的で,画面右下から左上へ視線を動かして観るに相応しい構図であるのとは対象的である。春朝斎最後の名所図会『摂津名所図会』には,より視点が低く現実に近付いた空間表現が登場するが,その一例「桜宮」〔図16〕が現実空間の完全な再現でないこともまた明らかである。この図には地平線が描かれず,後景に広がる田圃と空の区別がつかない。彼は部分的にはリアルな空間を目指したが,地平線の設定には至らなかった。これが「地図」機能を出発点とする春朝斎名所図会の限界である一方,彼のスタイルの完成であった。3 名所図会の展開-54 -
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