鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
657/747

絵画の第一歩を踏み出した一人であったにもかかわらず,理論先行の主義主張には心を動かされず,「誰にでも分かりやすい」絵画,すなわち,戦後,大衆的な人気をほしいままにしたあの東郷様式を生み出し,それに執着し続けた根源となってゆくわけである。さて,このマリネッティとともに活動した未米派体験の時期や内容に関して,五十殿氏は,当時の新聞・雑誌記事や,残されていた書簡類を調査することによって,詳細な分析に成功している。そしてこの分析が特に重要だと思われることは,これまで,マリネッティらの宣伝活動に参加したのが,いったいいつの時点であったのか,また具体的にどのようなことがそこでなされたのかということを,過去のことを振り返る東郷の回想の言葉からではなく,当時の生な声を反映する資料から知ることが可能となったことだと思われる。まず時期の方だが,1921年6月5Bにパリに済いた東郷が,マリネッティに初めて会ったのは,6月17日のルッソロの「騒音コンサート」であったことがほぼ確実となっている。このこと自体は,別なことで重要な意味を持っているので,また後にふれるつもりだが,その後,10月に一度,イタリアのマリネッティ邸を訪れ,問題となる宣伝旅行の方は,翌年の1月15日に出発した二度目のイタリア行きのことであり,肝心の宣言集会は,21日に行われていたことが当地の新聞数紙に取り上げられた記事によって明らかとなっている(注3)。また内容の方では,1922年4月の『明星』に,有島生馬宛の書簡が「巴里より」という題名で掲載されており,マリネッティらの歓迎ぶりがいかにすさまじいものであったのかを我々に直に伝えている。これもすでに五十殿氏によっていくつかの引用がなされているので,ここでは,最小限の引用にとどめよう。「ボロニアでは,まったく一個のフュチュリストとしてマリネッティ等と,ほとんど封等の待遇を受けたのですから,僕の得意をお察し下さい。」(『明星』1巻6号;p.142)さて,この記事で我々がさらに驚かされることは,東郷がこの運動に参加して,彼ら未来派と行動をともにしたことを,ほとんど歓喜に満ちた様子で伝えているということである。もとより,有島宛に書かれたこの文章は,その最初の部分で,「僕は此のつつみ切れないやうな喜びを,どう,あなたにお分ちして良いのかど苦しんでゐる位です。」と語っているところからまずもって明白なように,あの回想時に語られているような未来派に幻滅した東郷などというものは,どの一言からも感じとれないものとなっているのである。つまり,「私の履歴書」を初めとする回想の文章は,そのまま素-646-

元のページ  ../index.html#657

このブックを見る