Vヽ直に信用すべきものではなかったのかもしれない。いずれにしろ彼は,どこかの段階で,未来派の運動を否定的に捉らえるようになったことは間違いないのだろうが,少なくともそれは,そのことの直後ではなかったことは明らかとなったわけである。それではいったいそれはどの時点と考えればよいのだろうか。五十殿氏の発見した資料には,この疑問に対するヒントもいくつか現われてくる。「巴里に於ける未来派の空氣が案外稀薄なのは,御本尊の立睦派に多少押され氣味であるだらう。」(「アンデパンダンを見る」1922年5月『みづゑ』207;p.22) これは,1922年初頭の第33回アンデパンダン展の様子を伝えた一文であるが,パリでの新傾向は立体派が主流であり,未来派作品は「どれもこれも駄作」であると断じているけれども,それをまった<否定し切っているわけではない。また五十殿氏の伝えるマリネッティ宛東郷書簡の,おそらく最も日付の遅いー通('22年6月21日付,仏文)では,しばらく健康を害してパリを留守にしていて,無沙汰をしたことを謝罪しつつ,「マリネッティとイタリア未米派の現状」(未発見)という一文を日本に送ったことなどか語られている。さらに,1922年8月号『明星』には,東郷作の未来派詩が発表されている事実もあり,どう考えても,この1922年中に,未来派を見捨てるなどということはありえないことだったように思える。しかし,残念ながら,文献的に跡付けられるのはこのあたりまでであり,ここからの東郷の行動は,再び回想に頼るほかないようだ。回想によれば,パリで生まれた子供('21年11月)と妻をかかえ,相当な生活苦に見舞われ,妻子を日本に帰してからも('22年末頃),'23年の関東大震災以後は,母からの仕送りもとだえ,「難航に難航を重ねて帰えるに帰えられず」('74年1月号『アサヒギャラリ』12; p.12)という状態が続くことになるわけなのだろう。この間に彼はその信条を変えたのだろうか。だが,帰国後でも,戦前の文献などを見る限り,後の文章にあるような,未来派に対してあからさまに否定するような表現はどうも見あたらないように思われ,どうやら,戦後,ある程度自分の画壇での地位が確立されてから,あのような未米派観ができあがってゆくのではないかと思いたくなってくる。ところが,ある程度明らかな拒否の姿勢を,滞欧中から見せていた対象があったことをここで見てゆかなければならない。それは,彼が舞い降りた1921年のパリで,ぉそらく最も激しい活動を見せていた運動,すなわち,パリのダダのことにほかならな゜-647-
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