鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
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2 東郷青児とダダイスム先に,東郷がマリネッティに最初に出会ったのが1921年の6月17日に開かれたルッソロの「騒音コンサート」であることがほぼ明らかとなっているということにふれたが,このことが事実だとすると,東郷はパリ到着早々に,大変な体験をしたことになるようだ。というのも,このコンサートは,パリのダダの運動に大きな転換点をあたえる重要な事件を伴っていたのである。手短かに述べると,パリのダダ運動は,この年の1月にパリを訪れたマリネッティの講演以来,未来派との対立姿勢を強化させていたのだが,実はこの「騒音コンサート」が開かれたシャンゼリゼ劇場(モンテニュー通り13番地)の最上階にあったギャラリー・モンテーニュでは,おそらくパリのダダの最大の,そして最後となる展覧会「サロン・ダダ」がまさに開催中であったのであり(6月6日から30日までの予定),ルッソロのコンサートの翌日には,展覧会に付随するダダの催し「土曜日のマチネ」も予定されていた。つまり,ルッソロは,ダダの真っ只中でコンサートを始めたことになる。当然のごとくダダイストたちは,このコンサートにのりこみ,「ダダの趣意書がホールの中を飛びはじめ,ツァラが口笛をならし,擬音主義者とその支持者たちの意図を罵倒しはじめ」(1979年「パリのダダ』ミッシェル・サヌイエ,安堂信也他訳,白水杜;p.257) 結局,劇場の支配人が警察を導入し,「サロン・ダダ」も即時閉鎖を宣告されてしまうことになる。東郷は未来派のコンサートに行って,それよりも激しい前衛の一派,ダダの洗礼をまずもって受けていたのであった。もちろん開催中の「サロン・ダダ」を見ないはずがない。「第一,度胆をぬかれたのは,会場の天井から大開きに開いたパラソルが何十本となくぶら下げてあったこと,そのパラソルの間をぬって,ネクタイが万国国旗のように垂れていて,それが開け放たれた窓からの微風で,ひらひらゆれていたことだ。」(「ダダイスムと未来派」1955年1月『美術手帖』90; p. 69) これは,前節で挙げた回想の一つにかぞえ上げられる一文であるが,これが「サロン・ダダ」であることは,瀬木慎一氏の指摘以来(注4)予想されていたが,先のサヌイエの『パリのダダ』によるこの展覧会の描写を見れば,パラソルのことといい,ネクタイのことといい,全く一致しており,「サロン・ダダ」以外には想定できないことがはっきりする。さらに,これに続けて,東郷が語っている出品作品についても『パリの-648-

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