13)。彼の作『河内名所図会』(享和元年)は,春朝斎には見られない新しい空間表現19〕は,均質な情報の伝達を半ば犠牲にして絵画としての迫力を優先したことを物語4 「小笠原島真景図」についての考察春朝斎の没後,名所図会の仕事を継承した画家の一人丹羽桃深(宝暦10〜文政5)は,浪華の風俗絵師月岡雪鼎の門人蔀関月に師事し,多くの版本挿絵を残している(注の可能性を示す。彼は「地面の存在」を明確に認識しており,その顕著な例が「楠正行墳」〔図17〕である。後景の山の麓から放射状に広がる線は,春朝斎が作り上げた平行遠近法の原則からの逸脱を示している。桃埃が『摂津名所図会』に寄せた挿図には浮絵風の図が見られる〔図18〕。こうした新しい技法への関心が名所図会に新地平を開いたのであった。桃淫とは異なる次元において名所図会の性質を変革したのは,春朝斎の息子春泉斎(生没年不詳)である。彼は秋里籠島の『東海道名所図会』(寛政九年刊)の挿図も担当したが,彼の特質は河内の真宗大谷派の僧了貞の著『二十四輩巡拝図会』(享和三〜文化六年刊)に顕著である。前景と後景で明らかに大きさの異なるモチーフの描写〔図る。さらに前景のモチーフをより大きく描く図は〔図20〕,絵画的に面白く動きのある画面への傾斜を如実に示している。こうした寛政半ばにおける名所図会の特質の変化に「公余探勝図」も一役買っている可能性がある。その稿本が上方に渡り,画家上田耕夫により模本が制作されたといい(注14),文晃自身も寛政八年に関西に赴いている。彼以上に旺盛に各地を旅し実景を描いた弟子の白雲も関西を旅しており,浪華の書家森川竹窓が彼の真景帖の一つ「中仙道画帖」に題記を寄せていることは,文晃らの風景表現の当地への伝来を示す有力な証拠となる。こうした変化の要因の解明は今後に待たれる。同時にこれ以後名所図会の空間表現か絵画的要素と地図的要素の間を舵取りしながら進んでゆく軌跡を辿ることも興味深い課題であろう。「小笠原島真景図」(以下「真景図」と略,国立国会図書館蔵,紙本著色,全二冊)は文久元〜二年,江戸の南方約千kmの太平洋に浮かぶ小笠原諸島に幕府が軍艦咸臨丸を派遣して行なった巡見を題材とする。(1) 筆者の特定を巡る問題-55 -
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