ママダダ』と照合させることによって,それが誰の作品であるのか,ある程度判断が下せそうだ。たとえば,「壁面には,からの額縁がかかっていて」と東郷が言うのは,この展覧会に出品する予定になっていて,結局,チェスに熱中し始めていたデュシャンが作品を送ってこなかったために,額だけを展示してあった“作品のない作品”だったと考えることができる(『パリのダダ』;p.253)。また,「鏡に参責だけが描いてあって,『君の顔』と云うのがあったり」というのは,やや描写が異なるが,「ちょうど眼の高さのところには,ガスでふくらませた子供の風船を一つつけ,模様で飾った鏡があり,これがいやおうなく通行人の視線をとらえていた。通行人たちは自分の顔を見て満足したあとで,そこに貼ってある札の方へ身をかがめると『見知らぬ男の肖像』という題名を読むことができる」(同書;p.251)というフィリップ・スーポーの作品であったかもしれない。さて,この「サロン・ダダ」での体験は,いち早く日本に伝えられていることにも注目する必要があるだろう。この記事は,「美術の都ダゞ」(注5)と題されて,1921年8月9日の読売新聞に掲載されているが,ここで私か見ておかなければならないことは,東郷がダダに対してどのような判断を下しているかという一点だろう。「巴里では今ダゞイストの痛快なモーヴマンが好奇心の強いパリージャンの人氣を引いてゐます。未来派の更に上を行った様な彼等のマニフェストはノーマルな約束を超越した一種のParallax(視差;筆者注,以下同)としか思へない位ゐ物凄いものです。」たとえば,この出だしの一文では,全く素直な感想が述べられているだけであり,少なくともダダを拒否する姿勢は感じられそうもない。また,その作品についての感想では,「Immaterialphenomenon(非物質的現象)やResidualphenomenon(説明のつかない現象)」のようなものを「現賓的に取扱はうとして居る」と述べているように,やや抽象的表現を用いてはいるものの,これもダダの意味をなんとか肯定的に捉えようとした努力の産物のように思える。さらに,これに続く一文を見れば,やはり,最初の強烈な体験だけで,この派を切り捨てるようなことはなかったとうなずけるのではなかろうか。「けれどもそれによって我々が感ずる迷妄離脱の幻滅こそ,かへって彼等がねらってゐる究極のものであり,正に火蓋を切らうとする新しい生命への出疲貼だとも云へるのでせう。」-649-
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