〔図1,2〕,「無敷の作品の中で王様のやうな尊大さを持って人心を併呑してゐた」「Rienと云う文字を矢鱈に使い,あれもRienこれもRienのRienづくめだった。」"DADA lui ne sent rien, il n'est rien, rien, rien, 11 est comme vos espoirs : rien. comme vos paradis : rien" (MANIFESTE CANNIBALE DADA, Francis さらに,この年のサロン・ドートンヌについて寄稿した新聞記事では(「巴里の=秋のサロン」1921年12月16日『読売新聞』),ピカビアの出品作をスケッチ入りで紹介しと記しており,ピカビアがツァラらと別れてしまったことを同時に記しているとしても,それを「ダダの作品」としてはっきり伝えていることは,彼の考えにまだ変化のないことを示しているように思われる。ところが,これから約3ヶ月を過ぎて書かれた,先程の「アンデパンダンを見る」になると,少々事情が違ってくるようだ。「ダゞイストは立腔派に押され氣味で,場末の方からPlusrien, rien, rienを大瞥で怒鳴ってゐる。」ここでは,未来派と同様に立体派に押されているというダダの状況をただ単に伝えているだけというより,すでに否定的なニュアンスが含まれているように受けとれる。そして,先程のピカビアについても,今度はその出品作について「いくらダゞのいはゆる虚無に立脚した思索をたどって見ても,党ひにその意味する所を掴み得ない」と手厳しい。さらに最後に「一番人を食ったもの」として名を挙げているピエール・ガリアンという作家の作品に対しては「此虞に至っては最早唖然たらざるを得ない」と決めつけている。これらを見ると,彼の判断に一つの結論が出はじめていたことが予想されてくるだろう。ことに,ここに現われる“rien"もしくは“虚無”という言葉にはアンダーラインを引く必要がある。それは,彼の回想の文章の中で,当時の前衛運動を否定的に語る時に必ず使われる言葉であり,言ってみれば彼の前衛体験を集約するキーワードともなっていたものであった。(前掲「ダダイズムと未来派」)しかし,この言葉自体は,当時のダダを表現する時に,まさに相応しい言葉に違いなく,ほんの短いダダの季節を迎えていたパリの街で,紛れもなく彼らが叫び続けたその言葉に他ならなかったのである。-650-
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