鹿島美術研究 年報第13号別冊(1996)
662/747

7)。3 前衛の否定「ダダはなんにも感じない。ダダは無だ,無だ,無だ。ダダは君たちの希望と同じだ,無だ。ダダは天国と同じだ,無だ。」(「ダダ食人宣言」ピカビア,前掲『パリのダダ』;p.151)短いダダの季節と書いたのは他でもない。第一次大戦後,新しい何かに飢えていたフランスの文学青年たちが,あいついでパリを訪れたダダイスト,ピカビア('19年3月)やツァラ('20年1月)らに合流することによって開始されたパリのダダは,1921年5月にブルトンによって企画されたあの有名な「バレス裁判」においてすでにその亀裂を表していたのであり,この時のピカビア離脱以降,急速にその勢いを落として行ったと考えられている。そんな中で開催された「サロン・ダダ」は,先にも記したようにパリのダダの最後の展覧会になってしまうのである。この亀裂の一番の原因と考えられるのが,どのような拠りどころをも認めないツァラやピカビアの真性のダダイストの考えに,ブルトンら自身が自分たちの思想を結びつけることがどうしてもできないことに徐々に気づきはじめていった結果であったと考えられるだろう(注6)。とすれば,この展覧会の直前にパリにたどりついた東郷が,これを受け入れようと努めた後に味わったとまどいと,さらにその後に下した判断とは,ブルトンが歩んだ道とそれ程かけ離れたものではなかったのかもしれないことになる。ブルトンがその後,自らの思想に一応の決着をつけて「シュルレアリスム宣言」を発表するのは,1924年のことであったが,回想の文章をある程度信用するとすれば,この時点での東郷は,もはやこれとあれとを区別して考えている余裕もない状況にあったのかもしれない(注前の二つの節で,私は,東郷青児と,未来派及びダダとの関係を別々にたどってみたことになる。それは,戦後の東郷の回想の文章を見る限り,彼がこれらの前衛体験をひとまとめにして否定しているような印象があるにもかかわらず,それは,当時の実際の体験とは必ずしも一致したものではなかったのではないかと考えたからに他ならない。たとえば,2節で,1921年中には,ダダを受け入れようとしているかに見えたもの炉翌年のアンデパンダン展(おそらく2月か3月)において,ダダを否定しはじめてPICABIA, "DADAPHONE" 1920 MARS; "Dada" 1981, Jean-Michel Place) -651-

元のページ  ../index.html#662

このブックを見る